絵を見るのが最近好き

少し前まで、「音楽を聴いて涙が出ることはあるけど、一枚の絵を見て感動することは無いな」と思っていたけれど、最近絵に心が救われることが多い。

一枚単位でというより、筆のワンタッチが生む模様だとか、テクスチャ、線の疎密に癒やされる。
筆のタッチが表すのは、最終的にはキャンバスに一人で向き合う作者の孤独の時間の蓄積であり、その静かな時間の中でどれだけ対象を愛した(観察した)かの証明のように思う。
これまで「のっぺりした一枚の画像」のように感じていた絵が、最近はそうした時間の再生機のように感じる。

たとえばポール・シニャックの《コンカルノー港》という絵における、船の側面の金属の部分かどこかが、日の光をキラッと反射したその一瞬を頭に残しながら筆を置いていった時間、灯台の側面の素材感とそこに落ちる光の色を見つめた時間。

本当に勝手な所感だが、私は私の好きな絵画から「私の表現すごいだろ!」「私を見て!」という顕示欲より「絵の向こうにある景色や人物からの強い影響」「そこに静かにしかし強かに目を向ける姿勢」を感じる。その静かさと強さが好きだ。

それとは別に、模様のメッセージ性の無さ、その静かさも好きだ。模様によって与えられる解釈の踊り場で好きに踊るのが楽しい。

藤島武二《浪(大洗)》
右下の、筆が跳ねてる部分がかわいい。



以前住んでいたところの周辺にはめちゃくちゃ猫がいたが、最近新しく住み始めたところでは今の所一度も猫と遭遇していない。
なので、これは(以前出会って)今日(振り返っていいなあと思った)の猫である。

子供向け番組っていいね

ドラえもんのび太の恐竜2006を観た。アニメって良いものだなと改めて思う。
これを見て子供たちは「お別れ」や「冒険」というものをなんとなく知っていくんだろうなとか、未知を怖がらず楽しんでみる強さに触れるんだろうなと思った。のび太やドラえもんが愛おしくてたくさん泣いた。ピー助かわいい。

子供向けの番組が好きだ。ドラえもんとか仮面ライダーとか。
情報量の多い複雑なこの世界の中で、私たちは全ての情報を受け取って処理することはできないから、無意識のうちに自分の知っていることや、見たことのあることだけを取り出して見ているのだと思う。一方でこうした子供向けの番組は非常にシンプルに構成されていたり、情報量や複雑性があえて削ぎ落とされることがある。現実の世界の中で見過ごしてしまっているものを、こういった子供向けコンテンツは気付かせてくれるような気がする。

子どもの本というのは、子ども時代の懐かしい本のことだけでなく、むしろ大人たちにとっては、大人になるとともに自分たちがいつか失った疑いや希望といったものがそこに見いだされるような、あるいは確かめられるような、つねにそういう入り口をもつ本として捉えかえすほうがずっといいと思うのです。

長田弘『読書からはじまる』

それにしてもAmazonレビューの酷評には辟易してしまうが、でもそれだけ原作が大好きで、大好き故に観ていて悲しくなってしまった部分があったのだろう。僕も好きだったアニメのシーズン2で脚本や制作会社が変わり、同じような悲しさと寂しさを感じたことがある。

今日の猫

怒りを感じることについて

怒りには「感情」と「道具」二つの側面があるように思う。
後者に見られる、怒声をあげるなど怒りを表すことによりコミュニケーションの行方をコントロールする行為は、
これまで自分の行動の選択肢に入っていなかったように思うし、これからも自然にこのままで良いと思っている。
特に暴力などはその思想が未熟であることを単に示すだけで、論外だと考えている。

ただ、怒りを感じてモヤモヤする、イライラする、カチンとくる、といったことに関して。
こういった怒りの感情は自分の活力にもなり得るが、そうではなく他人に不機嫌に当たってしまったり、
ただモヤモヤイライラとして時間を過ごしてしまうのであれば、その怒りは感じたくない、怒りたくないと思う。でも怒りを感じてしまうことはある。どうしたら良いだろう。

怒りを感じたとき、これまでは「なぜその対象に怒りを感じたか」「ではどうするか」と対象に怒りを抱く正当性を確認し理屈を結びつけながら考えようとしていた。しかしよくよく自分の感情を観察してみると、元々空腹や、自分の思い通りに自分の行動をコントロールできていなかったことから来る苛立ちからある程度不機嫌であり、そこに「手っ取り早く怒ることのできる対象」が降ってきたことによって、内にある不機嫌の矛先をその対象に向けてしまっているだけであることが多々あるように思えた。つまり、その対象に怒りを抱く正当性は無く、怒りたいから怒っているだけ、ということである。
怒りは自分の心が生み出したものだから大事にしなきゃと、考えることもあったが、案外蔑ろにして良い二次感情なのかもしれない。

今日の猫

迷って悩みながら歩み続ける人

機動戦士ガンダムSEEDが好きだ(続編のDESTINYも)。
当時人気が低迷していたガンダムシリーズを立て直した功労者・実力者であり、ガンダムシリーズ1賛否が分かれ、アンチの方々が非常に生き生きとしている作品でもある。
アンチの方々の言い分はこうだ。
「あっちに行ったりこっちに行ったり、キャラクターが常に迷走している」
「キャラクターの言動や言い分にブレがある」
あとは絵柄への抵抗感、など。

迷っている人が好きだ。内田樹さんが、「自分の主張は間違っている可能性もある。」という前提に立つことのできる知性を「自説を無限に修正する可能性に開かれている」と表現するように、「偽物の方が圧倒的に価値がある。そこに本物になろうという意思があるだけ、偽物の方が本物よりも本物だ」と偽物語の中で言われるように、迷って悩んで歩み続ける人を尊いと思う。
SEEDの登場人物は、迷い、悩み続け、その時々で所属も変わるし主張も変わる。でも、その時々で言っていることが違う、変えられる人は、むしろその根に一貫した信念を持っているから変えられるのだとも思う。
シリーズを通して、考え続ける強さを表現している本作は、非常に硬派な作品だと感じる。


初詣に横浜の動くガンダムを見に行った。
こんなに大きなものが動くというだけで神々しかったし、有り難かった。
前向きな気持ちになった。

今日の猫

フラットで冷静だけど静かな暖かみのある表現

「愛」や「正義」という表現より「人権」という表現の方が落ち着くし、「頑張り」や「やる気」より「方法」という言葉を使う人を信頼したくなる。前者の表現の方が人間的な暖かみを感じそうだが、後者の表現に静かな暖かさを感じる。
「愛」という言葉で正当化される行為や、排他的で揺るがない「正義」こそ恐ろしいと感じるし、いくらトップが変わったところでトップを決める「方法」を変えなければ何も変わらないのは、政治から教われることの一つかもしれない。
「愛」も「正義」も「頑張り」も「やる気」も、「自分はこんなにやってるんです!」「自分は正しいことをやってるんだよ!?」と主張しポーズを作り自己保身するための道具で、その点「人権」や「方法」は、本当に相手に寄り添い状況を変えようという慎み深く強かな姿勢に思える。

後者のような言葉を使う人として真っ先に思い浮かぶのが、評論家・編集者の荻上チキさんだ。
荻上さんがパーソナリティを務める「荻上チキsession」は、好んで聴いているポッドキャストの一つで、ニュース番組として一番信頼している。使う言葉は非常にフラットで冷静だが、なんとなく静かな優しさを感じていた。先日から荻上さんの著書を読んでいて、ああ本当に人間の痛みが分かり、優しい人なんだなと思った。読んでいるのは『みらいめがね それでは息がつまるので』『僕らはいつまで「ダメ出し社会」を続けるのか 絶望から抜け出す「ポジ出し」の思想』と、あとはyomyomに掲載されていたポリアモリー・レポート。


気付けば新年であり、新年といえばブックオフのウルトラセールである。
国語辞典を買った。三省堂の例解新国語辞典にした。
「惨憺たる」を引いていたら同ページに「サンドイッチマン」という見出しを発見した。

サンドイッチマン:広告の板をからだの前後にさげて街頭を歩いて宣伝する人。

『例解 新国語辞典』

あの人に名前がついていること、サンドイッチマンと表現されること、辞書に載っていること、それぞれに驚いた。

今日の猫

Twitter上の負のコミュニケーションについて

Twitter上の議論について。
引用リツイートは「引用して自分の言いたいことを勝手に呟く」ためにたびたび使われる。
そうなると問いが乱立し論点がズレまくるのは自然なことだし、収束することなくみんながヤジ飛ばして終わるっていうどこにも向かわないコミュニケーションになりがちで、そこに気楽なコミュニケーションとしての良さは見出すことはできるが、そういう負の特性は理解すべきだと思う。

健全な議論もしくは対話を創出するためには、そういった負の特性の理解という大前提に加えて、「問いが整理されること」が必要な気がする。

株式会社MIMIGURIの代表取締役で、東京大学大学院 情報学環 特任助教である安斎勇樹さんらは著書、『問いのデザイン』において、「問いによってコミュニケーションの種類が変わる」ことを指摘している。
例えば
「最近面白かった本は?」という問いからは「雑談」(気軽な挨拶や情報のやり取りによって成立し、関係構築が目的の場合もあれば、目的そのものがない場合もある)が引き出され、
「人気のない本は本屋に置かないべきだろうか?」→討論(お互いの意見を述べ合い、どちらの意見が正しいかを決める)
「中学生のうちに読んでおくべき本とは?」→議論(全員で協力しながら納得いのいく答えを導くことがメイン)
「良い本とは何か?」→対話(自由な雰囲気の中で判断や評価を下さずに、理解を深めること、新たな意味づけを創り出したりすことが目的)
が引き出される、というふうにだ。

現状、「最近面白かった本は?」という雑談ベースの問いを出発点とした話題が、勝手に「人気のない本は本屋に置かないべきだろうか?」という討論ベースの話題にすり替わり、「著者〇〇の書いた本を置く本屋は倫理的に正しいか?」というようなまた別の話題にすり替わったりしながら、各々が改変し創出した問いについてワイワイ元気にヤジを飛ばしている、というのがだいたいのTwitter上の議論の形に見える。

そういったコミュニケーションに身を置く人を、もう一歩「考えたい」と動機づけることは、簡単なことではない。しかし「考えたい」と思っているが、この不健全なコミュニケーションの土台に歯痒さを感じている人たちが、健全に対話を交わす場はあると良いよなと思う。

あ、その一つの答えがQuoraなのかな。

今日の猫

お寺にお邪魔して

Temple Morning Radioというポッドキャストを好んで聴いている。
松本紹圭さんというお坊さんが週ごとに様々なお坊さんをゲストに迎え、様々なことについてゆるっとした雰囲気の中で話がされるラジオである。(以前も一度同ラジオについて書いた。赦しがやってくるとき

そのラジオに登場していたお坊さんが住職を務めるお寺が千葉にあり、去年からコロナが落ち着いたタイミングで何回か写経会とその後のお茶会にお邪魔している。

今月の24日に久しぶりに伺って、写経と読経をさせていただき、雑談をした。
7人くらい参加していたこともあれば、今回は僕と友人ともう一人、3人の参加者だった。

2時間くらいのその会を終えた後、真っ暗で寒い(そこは周りより標高が高くて一層寒いらしい)駅までの20分くらいの夜道を友人と帰りながら、「今来れて本当によかったね」と住職さんたちと交わした会話や、解説されたお経の内容について話していた。
印象に残っている話を一つ書き留めておこうと思う。

雑談をしている中で、僕らの進路の話になった。就職先の話。
もう一人の参加者の方が、「ほとんどの悩みは人だもんね。良い人がいるといいよね。悪い人がいると本当につらい」と話された。
お坊さんは一度頷いた後、でも人はどこまでも自分の欲望や立場からしか物事を見ることはできなくて、その欲望や立場から都合が悪い人を「悪い人」と呼んだり、欲望や立場によって自分が、思っていない方向に変わってしまうこともある。そういう欲望とかから一度距離をとって、自分を客観的に見るっていうのが、大雑把にいうと仏教がやろうとしていることだと思います、と言っていた。
写経も読経も、一度自分から離れるためのものであり、自分にとってはそれが読書だったりするよと続けた。そうして一度「置いておく」ことができると良いよ、と、そのための没頭できることとかがあると良いよねと「おじさんの話みたいになっちゃったね(笑)」と言いながら伝えてくれた。
(大いに記憶違いがあると思うので、住職さんの名前は伏せておく。)

魚川裕司さんは著書『だから仏教は面白い!』の中で、ゴータマ・ブッダの行ったことを簡単にまとめれば、こういうことです。と述べる。

私たちは欲望の対象を喜び楽しんで、それをひたすら追い続けるという自然の傾向性をもっている。放っておいたら私たちはそちらのほうへと流れていくのだが、その流れに乗ることなく、現象をありのままに観察しなさい。そうすれば現象の無常・苦・無我を悟ることができ、それらを厭離(厭い離れる)し、離貪(貪りから離れる)して解脱に至ります。

魚川裕司『だから仏教は面白い!』

欲望の流れに乗らず、現象をありのままに観察すること。別に悟りを開くことを目指していない僕は、そういう状態に常に身を置く必要があるわけではなく、一時そうして現象を客観視することができるだけで楽になるんだろうなと感じる。
精神科医の名越康文さんも、何かに没頭して悩みを一旦おいておくことができれば、戻ってきたときに悩みに対する苦しみはちょっと薄くなってるものですと言っていたような気がする。そういえば名越さん仏教詳しかったなあ。

普通に「心」という場合、やはり喜怒哀楽という感情を指すことが多い。これらを私は一時感情と呼ぶが、じつは人間にはもっと複雑な感情がある。(中略)たとえば憎しみ、たとえば怨み。ある意味では佳い感情の蓄積が愛情を生み出すのかもしれない。これらは二次感情と呼ぶのが相応しいだろう。(中略)それらを「心」なんだから仕方ないじゃないか、と認めてしまうのではなく、しょせん「心」が捏造したに過ぎないじゃないか、とバカにする。ことに二次感情をバカにするのが禅の基本的立場なのである。

玄侑宗久『禅的生活』

今日の猫

脈略の欠如と物語る欲望

「電話したので、早く着いた。」

前の部分と後ろの部分とに関連がついていないこの文は、意味を捉えるのが難しい。
しかし、「救急車」と示唆されれば、「119に電話して救急車に乗れたので、病院に早く着いた」のかと想像がつきそうだ。前後の部分間に関連がついて、「わかる」という感覚が得られる。

①文章や文において、その部分間に関連がつかないと、「わからない」という状態を生じます。
②部分間に関連がつくと、「わかった」という状態を生じます。
③部分間の関連が、以前より、より緊密なものになると、「よりわかった」「よりよく読めた」という状態になります。
④部分間の関連をつけるために、必ずしも文中に記述のないことがらに関する知識を、また読み手が作り上げた想定・仮定を、私たちは持ち出してきて使っています。

西林克彦『わかったつもり~読解力がつかない本当の原因~ (光文社新書)』

一方、この「部分間に関連がつかないこと」を、内田樹さんは「意味の亀裂」と呼び、これこそが実は「私たちを暴力的なほど奔放な空想と思索へと誘う『物語発生装置』」だと言っている。

この「意味の亀裂」こそ、実は、私たちの知性と想像力を激しくかきたて、私たちを暴力的なほど奔放な空想と思索へと誘う「物語発生装置」なのです。私たちが意味の亀裂を弥縫するためにその裂け目に架ける「橋」のことを、私たちは通常「解釈」と呼んでいます。

内田樹『物語るという欲望』

LOSTやパーソンオブインタレスト(好き)、スター・ウォーズ/フォースの覚醒、スカイウォーカーの夜明けの制作を担当したJJエイブラムスが「謎」というキーワードを取り上げ、20分弱話をしているTEDトークがこちらにある。
彼は、時として謎が知識より価値を生むこと、
謎が無限の可能性と潜在性の感覚を生むこと、
謎が見るものを引き込むこと、
映画『卒業』の中のデートの場面で、そこに彼らがいるのに話していることが一言も聞こえないから生まれる魅力やロマンチックさに触れた後、
「究極的には 謎の箱というのは 私たちみんな」
であることを語る。

人間の内面はブラックボックスで、自分のことでさえ中に何が詰まっているかわからないことがある。
拙い言葉や表情の変化、仕草や目線などで内面が小出しにされることで、少しその人のことが分かり、
また次の謎が出てくる。
人間は謎そのものであり、だからこそ物語る欲望を刺激され(つまり、人について話したくなり)、人に魅力を感じるのかもしれないと思った。

逆に、作者という神の手によって、人物の内面まで脈略を以って語られてしまう物語に魅力を感じづらいのは、そういうことかもしれないとも感じる。

家の骨

修論を提出した足で、研究室の准教授の個展を見に行った。

美術館や展覧会は一人で回りたい。それか自分よりゆっくり回る人とが嬉しい。
待ち時間は好きだけど、待たせ時間が苦手で、特に展覧会ではぼーっとゆっくりしていたい。

作品を前にリアルタイムで感想を語り合うのも苦手なことに気付いた。
なにも考えていないからである。
あ、埃が飛んできたなとか、あ、これは泡かなとか、目の前で起こっていることをぼーっと眺めて、
この感じはなんだろうな…?という分からない感覚の中で、ぼんやりした感覚がちょっとずつ明瞭になっていくのをぷかぷか待っている感じで過ごしている。

この彫刻を眺めていて、家の骨みたいだなと思った。
家は生きていたのかな、とも思った。

片付けコンサルタントのこんまりさんの番組の中で、片付けをする前には必ず家に挨拶をするのだが、
座って、しばらく無言で目を閉じて家に挨拶をするそのシーンが思い浮かんだ。
挨拶の儀式を終えて、ある家の主人がこう言う。
「今までこの家に語りかけたことはないけど いいもんだね
”君はいい家でいてくれたよ(This has been a very good home for us.)”って」

一人が良いと言ったけど、同期6人でぶらぶら回るのも、電車に乗るのも楽しかった。



けどwifiがなければ、その場に合った生き方ができる。

金を持っているとどこに行っても同じ生き方をしてしまう。けど金がなければ、その場に合った生き方ができる。それはそれで悪くない。

バルサ『アニメ 精霊の守り人』

「金」の部分を「wifi」に置き換えると現代版になる気がする。
「wifiを持っているとどこに行っても同じ生き方をしてしまう。けどwifiがなければ、その場に合った生き方ができる。それはそれで悪くない。」

アニメの精霊の守り人は上橋菜穂子さんを知るきっかけになった作品で、
攻殻機動隊SACの監督・脚本をやっている、安心・信頼の神山健治さんが監督・脚本だったから見た。
守り人シリーズ1巻目の『精霊の守り人』を掘り下げて掘り下げて26話に展開した神山さんチームの手腕は確かな物で、原作の良さと、神山さんの徹底的にキャラクターを深掘りする手腕、プロダクションIGの作画力、川井憲次さんの音楽らが相乗効果的に組み合っていてすごくよかった。

引用したのは、1話冒頭で主人公のバルサが言うアニメオリジナルの台詞だ。
この台詞がとてもハイコンテクストで、
バルサの人となりを表していることはもちろん、その後大金を積まれて王子の護衛を頼まれる際に視聴者は、大金を目的に引き受けないであろうことを知っているから、どのような判断をするか、下した判断にどのような意図があるのか、想像を膨らませる足掛かりとなる。
決して全てを語らないが、描かれている以上のことを想像させる演出だなと思う。

IGの描く空好きだなー

今日の猫

警備員さん「どうしました?」
僕「あ、猫見てるだけです」