月別: 2020年10月

「禁止」の無い行動の誘導

正解がないテストクリエーティブテストのヒミツ(前編)

「そば屋に来た人にうどんを注文させる広告を考えなさい」という問題に対して出た自由な答えの一つとして、
「365日蕎麦を食べさせてから連れてくる」というものが出ていた。

AかBかどちらかの行為が選択できる場において、AではなくBをしてほしいというとき、
その「場」の前にAをとことんやってきてもらう、というのは「禁止」の無い良い行動の誘導方法だなと感じる。
特に対象がAをやりたがっている場合において。

アルバイト先では塾ではないが塾のような形態をとっている。
毎週通い、好きなものを作る。その中でITの知識に触れたり学んだりしていく。
もちろんちょっと辛抱して頑張るシーンも出てくる。
モチベーション高く通っている子もいれば、週によって気分の浮き沈みがあったり、
すぐスマホゲームをしたがる子や、youtubeを見たがる子もいる。
僕らも、子供達の教室に到着した時点でのテンションは0であるくらいの想定でテンションをあげてもらう仕掛けを模索するが、
待合室で思う存分遊んでからきてもらう仕掛けをするというのは一つ、良い行動の誘導方法だなと感じる。

形にしていく上で、
・思う存分遊んだ感
・とってつけたような偽物でないこと(素材やUI等において本物であり、没入感があること)
等が大事になってきそう。

今週の猫

「消せない」の効用/道具と思考

最近、毎日絵を描いてSNSに投稿している。(今日で19日目)
毎回、線の種類や引き方を変えたり、影の落とし方を考え、色の置き方を考え、
体のそれぞれの部位の形がとれなくて試行錯誤したり、好きな絵を観察してみたり、
次から次へと小さな研究テーマが見つかって楽しい。
そして毎回「もっと上手く描きたいもんだなあ」「次はここの表現を考えてみよう」と思いながら筆を置く。

絵はipadを使って描いている。
しかし最近、ペンを用いて紙に漫画を描くことがあったのだが、
その際に頭をフル回転させながら慎重に筆を運ぶ自分に気付いた。
「よく考えて」描いていた。

これは絵を描くときに限った話では無いと思う。
消せる鉛筆と消せないペンでは、前者は消せることからくる書き出しのハードルの低さがある一方、
後者はよく考えて書くという行動が誘発される。

どちらが良いという話では無いが、ツールで大きく頭の使い方が変わってくることは面白い。

余談だが、これは五年くらい前の模写絵で、以前は模写絵ばかり描いていた。


何が楽しかったかといえば、もちろん線を紙に引く禅的な(?)楽しさもあったかと思うが(絵を描いているときは深呼吸をしている気分になった)、
写真みたいですごいね!と言われることが嬉しかったのだと思う。
それと比べると、今は絵を描くことに以前より楽しみを見いだせている気がする。

今週の猫

赦しがやってくるとき

光明寺僧侶の松本紹圭さんのラジオが好きでよく聞いているのだが、
浄土真宗本願寺派僧侶の石田明里さんとの赦しについてのお話が良かった。
そのときの内容を大意で書き出してみる。

あの人を怒らせてしまった。
憎しみを向けられている方(許す側)は、自分から何もできない。
謝ることはできるが、どこまでいっても許す主体は許す側にある。

しかし、実は許す側の人も、どうにもできない。
許せないから許せないのであって、「許してあげたら」と言われても、どうしてもそのことを思い出してしまう。
繰り返し思い出すから自分でまた自分を傷つける。自分でダメージを増幅させてる。
そこから抜け出すのは最終的には神の仕事なのではないか。
許す側も許される側も赦しがやってきて、ようやく終わる。

ではいつ「赦しはやってくる」のだろうか。
石田明里さんは、血を流して磔になっているキリストのビジュアル、
こんな残忍なことに対しても全てを赦すその姿を見て日々過ごしている(カトリックの人たちに関して)というのは、
赦しにつながっている部分があると考えていると仰っていた。

許すために理屈を辿って、あれこれ考えていても赦しはやって来ず、
どこかの景色を見に行ったり、映画やアニメを見たり、本を読んだりコンサートに行ったり、
絵を見たり、おいしい食べ物を食べたり、その食べ物を作った人の話を聞いたり、動物を見たり、
そうした中でふと、赦しはやってくるのかもしれないと思った。

今週の猫

紙の本を読むときに無意識に処理している大量の情報

本を手に取り、開いて読んで閉じる。
その間に、私達が実際に読んでいると思っている量の何千倍もの量の情報量を入力して、高速に処理しているのだろう。

縦書きの本を読んでいるとき、残りの頁数は左手でおさえている紙の分厚さでなんとなく把握している。
例えばその分厚さによって、今向き合っている単語や文の意味や解釈まで変わってくることがある。
推理小説の手法の一つに、「レッド・ヘリング」(読者の注意を真犯人からそらすため、わざと提示される偽の手がかり。)というものがあるが、残り頁がわずかであるのにレッド・ヘリングが提示されることはほとんどない。それを無意識の内に把握しながら物語を咀嚼している。
電子書籍にも残り頁を表示させ確認することはできるが、その瞬間に一旦物語から離脱して視点をメタ的にし、集中が途切れることになる。
「確認することができる」状態と「ダイレクトに情報を感じている」状態では状況は全く異なる。

また、人には高度なスキャン能力がついており、見開きの末尾にチラッと見えた「様々な意味でのネタバレ」を一旦見なかったことにして読むこともままある。
本は発光しないので、自ら本を傾け、読んでいる部分に光をスポットライトのように当てて読んでいる。
親指にこそばゆくこすれる紙の感覚と頁を進めている実感を感じている。
…。

そういった、「本を読むときに処理している大量の情報」を無視してデジタル化していったときに、なんとも言えない違和感を感じるのかもしれない。

参考文献:内田樹,街場の文体論,2012

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