言葉が現すのは

誰が言った言葉であろうと、言葉は言葉として発言者と切り分け、その良し悪しが分かる人でありたいと思う。

嫌いな人の言う「いいこと」も、「いいこと」とわかりますように。

糸井重里『ふたつめのボールのようなことば。』

しかし、言葉と人は切り分けられるものじゃないなとも思う。
言葉はその言葉を表すためにあるのではなく、その向こうの情景を現すためにあると思うからだ。

できる限りのことをするためにベストを尽くすことが、勝負時に自信を持って決断できるかどうかにつながっているような気がします。
「これだけやったのだから後はどうなってもしようがない」と思って選択することが出来、決断できる時には、物事は大体上手く行くものだと思います。

羽生善治

誤解を恐れず言えば、この趣旨の言葉はよく言われていることだと思う。
人事を尽くして天命を待つという諺があったりもする。
しかし、羽生さんがこれを言っている、この言葉を抱きながら将棋に真摯に向き合い続けている羽生さんが言っていることに無二の意味があると思う。

この言葉を思い浮かべる私の脳には、同時に羽生さんの棋譜や感想戦への向き合い方の逸話等が一緒に浮かんでくる。
そうやって思い浮かべた言葉は、誰が言ったかも知れない広告のコピー等とは違って、細胞に染み込んでくるような感じがある。

研究室の准教授が、展示会に向けて作品を作っていた。
大きくて重たいものだったので、ちょっと持ち上げるお手伝いをした。
そのときに
「(作品の制作について)多分うまくいかないんだけど、やれるところまでやってみてまたそこで考えようと思ってる」
ということを言っていて
「とにかく手を動かそう!」というデザイン書の言葉を軽く飛び越えて頭にストンと入ってきた。

今日の猫