怒りには「感情」と「道具」二つの側面があるように思う。
後者に見られる、怒声をあげるなど怒りを表すことによりコミュニケーションの行方をコントロールする行為は、
これまで自分の行動の選択肢に入っていなかったように思うし、これからも自然にこのままで良いと思っている。
特に暴力などはその思想が未熟であることを単に示すだけで、論外だと考えている。
ただ、怒りを感じてモヤモヤする、イライラする、カチンとくる、といったことに関して。
こういった怒りの感情は自分の活力にもなり得るが、そうではなく他人に不機嫌に当たってしまったり、
ただモヤモヤイライラとして時間を過ごしてしまうのであれば、その怒りは感じたくない、怒りたくないと思う。でも怒りを感じてしまうことはある。どうしたら良いだろう。
怒りを感じたとき、これまでは「なぜその対象に怒りを感じたか」「ではどうするか」と対象に怒りを抱く正当性を確認し理屈を結びつけながら考えようとしていた。しかしよくよく自分の感情を観察してみると、元々空腹や、自分の思い通りに自分の行動をコントロールできていなかったことから来る苛立ちからある程度不機嫌であり、そこに「手っ取り早く怒ることのできる対象」が降ってきたことによって、内にある不機嫌の矛先をその対象に向けてしまっているだけであることが多々あるように思えた。つまり、その対象に怒りを抱く正当性は無く、怒りたいから怒っているだけ、ということである。
怒りは自分の心が生み出したものだから大事にしなきゃと、考えることもあったが、案外蔑ろにして良い二次感情なのかもしれない。
今日の猫
