僕が読んで感動して、すばらしい知恵の書物だと思っているものを、他の人はくだらない駄本だと思うことはよくあります。ちょっと考えると、「ふん、ろくでもない本だね」と切って捨てた人のほうが頭がよさそうに見えますけれど、書物との出会いという点で言えば、これは僕の「勝ち」なんです。他人が価値を見出せなかった行間に輝く価値を見出したのは、僕のリテラシーの性能がそれだけよかったということになるわけですから。
内田樹『街場の文体論』
又吉直樹さんが、たしか『夜を乗り超える』という本の中で「『共感ができなかった』と本を低評価する人がいるが、せっかく自分の感覚を広げる機会なのにもったいないし、読書はその感覚が広がっていく感じが楽しい」というような意味の発言をしていたように覚えている。
私も、数年ほど前まで主人公の心理や行動に「共感ができない」「理解ができない」作品が読めないことがあったし、何ならそういう作品を「没入感の損なわれる作品」として低く評価していた。
作者が1年とか、多くの時間をかけて書いた物語や心情を、なぜ一読程度で理解できると思ったんだろうか。
ある時期から、「理解できないことが作中起きた時、一旦あるがままを受け止め、なぜそれが起きたんだろう?なぜそう思ったんだろう?」と考えるようになった。作品を「先へ」ではなく「奥へ」と読み進んでいくイメージだ。
摂取すると濃いお酒を飲んで喉がカーッと熱くなるような(?)作品を読むのも好きになったし、
読んでからしばらく落ち込むような本も好きになった。
自分の価値観と沿わずに喉が熱くなったり、落ち込むような作品の中に、奥へ奥へと足を踏み入れていくことで自分の感覚が広がっていくような感じはたしかに楽しい。
「共感ができない作品」は「自分の感覚を広げてくれる作品」だった。
でもこれは、他人に強要してはいけない論理だと思う。
うまく言えないが、
一人で作品に向かい、「共感できない自分に気付き」「それを受け止め、受け入れ」そういった内省の中で「自分の感覚が広がっていく」のであり、感覚を広げることを他人から強制されるのはなんか違う気がする。
何が違うのかは違う機会に考えてみようと思う。
だから、積極的に内省し自分の感覚を広げようとしない他人に、
自分が感動した作品について語る気にはならない。
とりあえず見て!とも言えない。
今日の猫
