「移動」と「旅」の境

「移動」と「旅」の間に境目をつけるのは難しい。
目的地があって手段としてする移動に対して、移動自体が目的になっていることを旅と呼ぶか、いや
目的地に到着するために仕方なくする移動にも「旅」を感じることがある。
「旅とは、住んでいるところを離れて、よその土地を訪ねること」という辞書に載っていた解説も、いささか杓子定規な印象を受けた。

両者に明確な区切りは無く、
ただ、そこに含まれる「未知」と「偶然」の分量によって、多ければ多いほど旅に近付くのではないかと思った。

私たちは旅、未知と偶然の要素を多く含んだ旅に出るとき、どこかへ行きたいとか、なにかを調べたいとかなどといった、なんらかの意味で目的を持った自分の意思とは別に、一種のあやしい胸のときめきを感じる。

中村雄二郎『好奇心 知的情熱としての』

旅という単語から一番に連想する本が、多和田葉子氏の『地球にちりばめられて』だ。

ざっくりと
留学中に故郷の島国(たぶん日本)が消滅してしまった女性が、スカンジナビアの人々に伝じる独自の言語を作り出して生き抜きながら、言語学を研究する青年と共に同じ母語を話す者を捜す旅をするお話、とまとめてみた。

大辞泉で実施された「あなたの言葉を辞書に載せよう。2015」という企画で「旅」へ投稿された作品の中に、以下のようなものがある。

想像を働かせ、感じること、触れること、見つめること、澄ますこと。そして、受け入れること。

ゆずさん

『地球にちりばめられて』にぴったりな「旅」の解釈だと思った。

「恋人は古いコンセプト。わたしたちは並んで歩く人たち」

Hiruko- 多和田葉子『地球にちりばめられて』 より

複数言語、また創作言語の交雑を通して、物事に直に触れ、見つめ、感じ、澄ます。そして受け入れる。この話のそういう部分に魅力を感じた。

今日の猫