月別: 2020年9月

沈黙についての研究/沈黙のあるラジオ

沈黙が単体で存在するときには、「静かで内面の充実する豊かな時間」と捉えられることが多いが、
コミュニケーションの間に存在する沈黙は「コミュニケーション不全」「非生産的」「無活動の現れ」等と捉えられ、
特に学校教育等の場においては、「喋る」教育、「喋らせる」教育が行われることが少なく無い。(石川 〔イツ〕男,「沈黙」の表現と理解)

M・B・Roweは、小学校の学教育における教師の教授方略の一変数としての「待ち時間」の長短と位置が子供の言語や論理性の発達にどのような影響を与えるか、についての実験的研究の成果を発表している。
まずひとつの結果として、「待ち時間」の平均が、地域や教科の違いに関係なく、約1秒であることが示されている。
教師の発問後に生徒が一秒以内に答えないと、教師は同じ質問を繰り返すか、別の発問をするか、他の生徒を指名する。また、生徒が答えてから0.9秒以内に教師は反応したり別の発問をする。

次に、一回あたりの「待ち時間」の平均が3〜5秒になるように訓練された教師たちの授業は、
次の項目にわたって生徒の行動に変化をもたらしたという。
1.答えの時間が長くなったこと
2.自発的かつ適切な答えが増加したこと
3.答えの失敗(「わかりません」、無反応)が無くなったこと
4.確信をもった答えが増加したこと
5.よく考えた上での答えが増加したこと
6.教師中心の講義形態が減少し、生徒同士によるデータの比較などの出現率が増加したこと
7.事実に基づく推論の出現率が増加したこと
8.生徒の質問数が増加したこと
9.比較的遅れていると評価されている生徒の答えが増加したこと
10.生徒による「手法」の類型(例えば「構造化」「反応」など)が多様化したこと

具体的な実験方法及び結果についてはこちら:https://onlinelibrary.wiley.com/doi/abs/10.1002/tea.3660110202

M.Picardは、「沈黙の世界」の中で
「沈黙は決して消極的なものではない。沈黙とは単に『語らざること』ではない。沈黙は一つの積極的なもの、一つの充実した世界として独立自存しているものなのである。」
と言っている。

自分のこれまでの会話や、アルバイト先での授業を振り返ると、たしかに「沈黙」を「放送事故」か何かのように感じ、助け舟を出すようにすぐに発話を重ねたり、「うーーん」とあえて声を出したりしていたように思える。
しかし3~5秒ほどの沈黙は精神や気持ちを培うための具体的な方法なのかもしれない。

最近は、
きざんで炒めて、ひとりごと
(野菜を刻みながら独り言を話しているラジオ)
こういったラジオや、将棋の中継中ゆるい雑談をしている解説と聞き手のお話など、「沈黙のあるラジオ」を流しながら家事をすると心が休まる。

今週の猫

ほにゃ・そびゃ・とにゃ

本屋と打とうとして間違えてほにゃと打っても、本屋と変換される。
ちなみに、ぱにゃを変換してもパン屋になった。
そびゃは蕎麦屋にならなかった。
うどにゃはうどん屋になった。
おでにゃはおでん屋にならなかった。
とにゃは問屋になった。

「配置」と打とうとしたが、「は一」とかしか候補に出てこず、おかしいなあと思って「はいぜん」と打って変換をしたが、
これまた「は以前」などと出てきて困ってしまった。
どうやら名詞のすぐ後で変換していたことが原因らしく、名詞の後にスペースを空けて変換をし直したら思い通りの変換ができた。
そんなことあるんだ。

そして今、そのときのことを再現するためにわざわざ「は以前」と変換してしまったからに、「配膳」に変換しようとしても「は以前」しか出てこず、「は」と「いぜん」で変換するまとまりが分かれているため、一発で変換ができない。一応変換するための文節区切りの位置を変更するには、変換しているときに「Shift+やじるし」で変えられるが。

今週の猫

アルバイト・考えていること/神秘的な森と仲間

アルバイト先では、子供たちの「未知にワクワクしながら、自分らしく自分の世界を広げていく力」をITの力を用いて育むことが根底の理念として存在する。
具体的に何をしているかというと、プログラミングという道具を使って自分の好きなものを作ったり、3Dプリンターやレーザーカッターなどのデジタルファブリケーションツールやレゴを用いてロボット等を作ったり、blenderやtinkerCADを使って自分の世界観を表現したりと、好きなように活動する子供達を私たちメンターがサポートしている。

私たちの役割は、知識を詰め込んであげることではなく、子供たちが「好きだなぁ、やりたいなぁ、やってみたいなぁ」と思ったことに何かしらの障害が立ちはだかったとき、自分でその障害を取り除く力を育むサポートをすることだ。

「自分で障害を取り除く力」とは、
1.「未知」や「挑戦すること」を面白がれる力
2.自己肯定感・自己効力感
3.課題を突破していくための知識・知識を手繰り寄せる検索力
のことだと個人的に考えている。

1について私が具体的に気を付けていることは
成果主義になりすぎないことである。
試行錯誤という過程が楽しいから何度でも挑戦できるし、その上でいつのまにか目標を達成している。というのが一つの理想なのかなと思っている。
「できること」「知っていること」に重きを置きすぎると、
「知らないことを知られたくない」「できないと思われたくない」「できなそうなことに挑戦したくない」「できたように見せかけよう」
という気持ちが湧いてきてしまう。
だから、「できたー!」と報告してくれたときに「やったー!」と一緒に喜ばしい気持ちになったことは正直に表に出すが、
それを直に褒めるのではなくて、「何をしてできたのか」という一層だけ深掘るようなワンクッションを入れ、そうやって挑戦したこと、やってみた過程の部分がすごいことを伝えるように気を付けている。

そしてそれと同じくらい重要なのが、保護者の方への毎授業最後のフィードバックの時間だと思っている。
保護者は大抵目に見える進捗や成果の部分にばかり目がいく。
子供たちが授業中にいくら「これだけ試行錯誤してこんなことがわかった!すごい!」という気持ちになっても、
一番近いお母さんやお父さんに「全然進んでないじゃん」と一蹴されたら気持ちはどん底に落ちる。
安くないお金を払っている身としては、「未知」や「挑戦すること」自体を面白がれる力というような測り辛い基準より、制作の進捗という目に見える物差しで判断したくなる気持ちもわかるし、実際制作の進捗は大切だ。
そんな保護者の方々に、「どんなことに挑戦したのか」「どんな風に試行錯誤していたのか」「このプログラムの何がすごいのか」というようなことを細かく噛み砕き、子供を褒めるサポートをする。

この噛み砕いて説明する力は教室で非常に重要視されているが、私はそれ以上に、授業内で実際に「ワクワクする試行錯誤の機会」を提供し、それが可視化されていることが重要だと考えている。
つまり、保護者へのフィードバックの時間を、「私たち、ちゃんとうまく関わりましたよ」という言い訳の時間になどしたくない。

これがわかんない!わー!ってなっちゃっている子がいたとして、
この子は視覚優位の傾向があるかもなという子や多動気味かなと思う子には、一緒に近くのホワイトボードの壁のところまで行き、一緒に絵を描きながら「作戦会議」をしたり、
聴覚優位の傾向があるかもなという子とは、対話をする中で考えてもらったり、言葉で考えるのが得意そうな子には、言葉を紙に書き出してもらって、それをプログラムのブロック化をしていったりする。
答えを教えるのではなく、考える道筋から一緒に辿っていくのは先述の「3」にも繋がる。
そして何より大事なのは、一緒に立ち向かう「仲間」がいることだと思う。
近くにいる友達に相談したり、逆に教えてあげたり、そういう関わり合いを子供同士ですることが「ワクワクする試行錯誤」に繋がると考えている。
そうした仕掛けをちりばめて、保護者の方々にはその過程も細かく説明をする。


このように日々私たちも答えのない問題について考え試行錯誤しながらお仕事をしているが、
最近特に考え続けていることがある。
a.コロナの影響でオンライン授業に移行したとき何が一番困ったかというと、こうした仕掛けの手札の大部分が封印されてしまったこと。オンラインで「ワクワクする試行錯誤」の機会を提供する方法について。
b.すでに「知らないことを知られたくない」「できないと思われたくない」「できなそうなことに挑戦したくない」「できたように見せかけよう」という気持ちが強くある子たちとどう関わるか。

bについて、親御さんはかなり焦っている。
「このままじゃ将来この子が楽な方ばかりに逃げる大人になるんじゃないかと不安で」と言う。
しかし「このままじゃロクな大人にならないよ。プログラムがんばりなさいよ。」と大雑把に言われても子供は困る。
おそらく重要なのは、今イキイキとやっている好きなことを存分にして良い居場所があることを伝えることと、
その子への提案を細分化して、「こうしてみようよ」とわかりやすく伝えることだと思う。
あと、一緒にがんばる仲間がいること。

aについては…難しいなぁ…。
オンラインってむしろいろんなことがダイレクトに伝わる感じがあるし、なんか緊張する。
オンライン授業でどう居場所感を感じてもらうか…。

いろいろ考えていると、
御膳立てしすぎか?という考えもよぎる。
「神秘的な森」と「美味しいお弁当」と「準備のために自分で自由に使える少しのお金」と「仲間」があれば、子供たちはいくらでもイキイキと準備し冒険していろんな発見をしてくるはずだ。
どうにかこの「神秘的な森」と「仲間」を作るという部分で自分に力できることがないか考えている。

今週の猫

ゴゴゴ…

濁音化と「は」「ぱ」「ば」

「た」に濁点をつけると「だ」
「さ」に濁点をつけると「ざ」
「か」に濁点をつけると「が」
となる。
これを濁音化と呼ぶが、濁音化とはつまり何なのだろう。

「た」と「だ」、「さ」と「ざ」、「か」と「が」、
それぞれ口の中に意識を向けながら発音してみると、起きていることが同じであることがわかる。
「た」も「だ」も、舌を前歯の裏側にくっつけて離すということをしている。
「さ」も「ざ」も、上顎と舌をくっつけ、隙間に息を通している。
「か」も「が」も、喉により近い奥の方で、何か閉じてから開いているような感じがする。
ではこの二つの間になんの違いがあるかというと、「発音の素材にする空気の流れの性質が違う」という。

「さ」は「無声音」(声帯の振動を伴わずに発する音声)である。
対して「ざ」は「有声音」である。呼気が声帯を震わせながら口の空間まで到達したものを使って発音している。

濁音化とは、「口の中で起きていることが同じペア同士の音において、無声音を有声音に切り替えること」といえる。

なるほど濁点がつけられないもの(な行ま行や行ら行等)は、元々「有声音」である。

しかしこの法則に従って「は」と「ば」に目を向けると、違和感を覚える。
同じように「は」を濁音化しようとすると「あ゛」のような音になりそうである。
実際言語習得中の子供の中には、「『は』にテンテンをつけたもの」を発音して「あ゛」という風になる子がいるらしい。
「ば」からテンテンをとったら?と考えると「ぱ」が自然なような気がする。
大昔の日本では、現在の「は行」は、Pの音であったことがわかっているそうだ。
光が「ぴかり」と光るのも関係がありそうだ。

参考文献:広瀬 友紀,ちいさい言語学者の冒険-子どもに学ぶことばの秘密,2017

今週の猫

志賀直哉とメタフィクション

語呂が良い。

志賀直哉の「小僧の神様」という小説がある。
あらすじを端折りに端折り、三行くらいでまとめるとだいたい次のようになる。

・秤屋で働く寿司を食べたい十三、四くらいの小僧(仙吉)と、その小僧に御馳走してあげたいAという貴族院議員の話。

・ご馳走をする勇気が出なかったAは、秤屋で秤を買い、小僧を指名し家にまで運んでもらうことで、「運んでくれたお礼に」という理由をつけご馳走をすることにした。(その際、名前や住所を知られるのも変な気がして、書面にはでたらめな住所を書き、一緒に家まで向かった)

・ご馳走をした後、Aはなぜかとても淋しい気持ちになり、善事を行ったには違いないが、変に人知れず悪いことをしたような気分になった。小僧はというと、どうにもそのAが人間と思えず、仙人かお稲荷様のように思え、苦しい時、悲しい時は必ずそのAを思い、いつかまた思わぬ恵みを持って小僧の前に現れないかと考えるようになった。

そしてこのお話、最後の最後に「作者」が登場し、このお話はメタフィクション(虚構であることを自ら明かす作品)となる。
作者はここで筆を置く。小僧がAの正体を求め、Aがでたらめに書いた住所の元に訪ねると、人の住まいは無く、稲荷の祠があり、小僧は大層びっくりした。ということを書こうと思ったが、それでは小僧に少し残酷な気がしてここで筆を置くのだ。
という風なことが書いてある。

この「作者」は志賀直哉自身ではないのであろう。志賀直哉は、当初の意図が挫折した作者を描く作者←ココにおり、入れ子構造になっている。

「『作者』の意図」を末尾にあえて入れる作者の意図のことを考えると頭がグルグルしてくるが、綺麗なオチという運命の操り人形から小僧を解放し、作者の意図を迷子にさせることで、「小説は作者の意図の反映であり、それを正確に読み解くべき」という呪縛から読者を解放しているようにも思える。

今週の猫

アー写立ちじゃん。

タミル語の擬音語/暑い国の「冷たい心配り」

最近タミル語の擬音語に触れて元気が出た。
「すらすらと」を「サラサランヌ」
「ひそひそ話をする」を「クスクスッカ」
「ハキハキとした」を「スルスルッパーナ」
「ワクワクして」を「パラパラッパー」
というらしい。
パラパラッパー

タミル語が使われる南インドの気候は、日中の最高気温が30度に達しない日は年間で非常に少なく、「冷たい」という語は「心地よい」というニュアンスを持つという。私たちが「心温かい人」や「温かい配慮」というところを、タミル人は「冷たい人」、「冷たい心配り」と表現する。

日本には四季があり、夏も冬も同じくらいの期間あるが、温度が高いというベクトルには「熱い」の手前に「温かい」という「心地よいニュアンス」を持つ表現がある反面、温度が低いというベクトルには「冷たい」の手前に同じようなニュアンスの表現が無いように思える。でも「ひんやり」はちょっとだけ良いニュアンスが含まれているだろうか。「ぬるい」はどちらかというと「温かい」の手前のように感じる。

割と舌を巻いて発音するのか。文字が丸っこくて可愛い。

タミル語を勉強すること。
素敵なブログがあった。

丸みがあって流れるように書けるタミル文字。書いていて気持ち良いし、愛着がざぶざぶ湧いている今日この頃…

タミル語を勉強すること。

文字の形に愛しさや愛着を味わいながら文字を書く感覚は、小学生の書写の時間以来忘れていた。

参考文献:高橋孝信,世界のことば,1991

今週の猫