月別: 2021年12月

Twitter上の負のコミュニケーションについて

Twitter上の議論について。
引用リツイートは「引用して自分の言いたいことを勝手に呟く」ためにたびたび使われる。
そうなると問いが乱立し論点がズレまくるのは自然なことだし、収束することなくみんながヤジ飛ばして終わるっていうどこにも向かわないコミュニケーションになりがちで、そこに気楽なコミュニケーションとしての良さは見出すことはできるが、そういう負の特性は理解すべきだと思う。

健全な議論もしくは対話を創出するためには、そういった負の特性の理解という大前提に加えて、「問いが整理されること」が必要な気がする。

株式会社MIMIGURIの代表取締役で、東京大学大学院 情報学環 特任助教である安斎勇樹さんらは著書、『問いのデザイン』において、「問いによってコミュニケーションの種類が変わる」ことを指摘している。
例えば
「最近面白かった本は?」という問いからは「雑談」(気軽な挨拶や情報のやり取りによって成立し、関係構築が目的の場合もあれば、目的そのものがない場合もある)が引き出され、
「人気のない本は本屋に置かないべきだろうか?」→討論(お互いの意見を述べ合い、どちらの意見が正しいかを決める)
「中学生のうちに読んでおくべき本とは?」→議論(全員で協力しながら納得いのいく答えを導くことがメイン)
「良い本とは何か?」→対話(自由な雰囲気の中で判断や評価を下さずに、理解を深めること、新たな意味づけを創り出したりすことが目的)
が引き出される、というふうにだ。

現状、「最近面白かった本は?」という雑談ベースの問いを出発点とした話題が、勝手に「人気のない本は本屋に置かないべきだろうか?」という討論ベースの話題にすり替わり、「著者〇〇の書いた本を置く本屋は倫理的に正しいか?」というようなまた別の話題にすり替わったりしながら、各々が改変し創出した問いについてワイワイ元気にヤジを飛ばしている、というのがだいたいのTwitter上の議論の形に見える。

そういったコミュニケーションに身を置く人を、もう一歩「考えたい」と動機づけることは、簡単なことではない。しかし「考えたい」と思っているが、この不健全なコミュニケーションの土台に歯痒さを感じている人たちが、健全に対話を交わす場はあると良いよなと思う。

あ、その一つの答えがQuoraなのかな。

今日の猫

お寺にお邪魔して

Temple Morning Radioというポッドキャストを好んで聴いている。
松本紹圭さんというお坊さんが週ごとに様々なお坊さんをゲストに迎え、様々なことについてゆるっとした雰囲気の中で話がされるラジオである。(以前も一度同ラジオについて書いた。赦しがやってくるとき

そのラジオに登場していたお坊さんが住職を務めるお寺が千葉にあり、去年からコロナが落ち着いたタイミングで何回か写経会とその後のお茶会にお邪魔している。

今月の24日に久しぶりに伺って、写経と読経をさせていただき、雑談をした。
7人くらい参加していたこともあれば、今回は僕と友人ともう一人、3人の参加者だった。

2時間くらいのその会を終えた後、真っ暗で寒い(そこは周りより標高が高くて一層寒いらしい)駅までの20分くらいの夜道を友人と帰りながら、「今来れて本当によかったね」と住職さんたちと交わした会話や、解説されたお経の内容について話していた。
印象に残っている話を一つ書き留めておこうと思う。

雑談をしている中で、僕らの進路の話になった。就職先の話。
もう一人の参加者の方が、「ほとんどの悩みは人だもんね。良い人がいるといいよね。悪い人がいると本当につらい」と話された。
お坊さんは一度頷いた後、でも人はどこまでも自分の欲望や立場からしか物事を見ることはできなくて、その欲望や立場から都合が悪い人を「悪い人」と呼んだり、欲望や立場によって自分が、思っていない方向に変わってしまうこともある。そういう欲望とかから一度距離をとって、自分を客観的に見るっていうのが、大雑把にいうと仏教がやろうとしていることだと思います、と言っていた。
写経も読経も、一度自分から離れるためのものであり、自分にとってはそれが読書だったりするよと続けた。そうして一度「置いておく」ことができると良いよ、と、そのための没頭できることとかがあると良いよねと「おじさんの話みたいになっちゃったね(笑)」と言いながら伝えてくれた。
(大いに記憶違いがあると思うので、住職さんの名前は伏せておく。)

魚川裕司さんは著書『だから仏教は面白い!』の中で、ゴータマ・ブッダの行ったことを簡単にまとめれば、こういうことです。と述べる。

私たちは欲望の対象を喜び楽しんで、それをひたすら追い続けるという自然の傾向性をもっている。放っておいたら私たちはそちらのほうへと流れていくのだが、その流れに乗ることなく、現象をありのままに観察しなさい。そうすれば現象の無常・苦・無我を悟ることができ、それらを厭離(厭い離れる)し、離貪(貪りから離れる)して解脱に至ります。

魚川裕司『だから仏教は面白い!』

欲望の流れに乗らず、現象をありのままに観察すること。別に悟りを開くことを目指していない僕は、そういう状態に常に身を置く必要があるわけではなく、一時そうして現象を客観視することができるだけで楽になるんだろうなと感じる。
精神科医の名越康文さんも、何かに没頭して悩みを一旦おいておくことができれば、戻ってきたときに悩みに対する苦しみはちょっと薄くなってるものですと言っていたような気がする。そういえば名越さん仏教詳しかったなあ。

普通に「心」という場合、やはり喜怒哀楽という感情を指すことが多い。これらを私は一時感情と呼ぶが、じつは人間にはもっと複雑な感情がある。(中略)たとえば憎しみ、たとえば怨み。ある意味では佳い感情の蓄積が愛情を生み出すのかもしれない。これらは二次感情と呼ぶのが相応しいだろう。(中略)それらを「心」なんだから仕方ないじゃないか、と認めてしまうのではなく、しょせん「心」が捏造したに過ぎないじゃないか、とバカにする。ことに二次感情をバカにするのが禅の基本的立場なのである。

玄侑宗久『禅的生活』

今日の猫

脈略の欠如と物語る欲望

「電話したので、早く着いた。」

前の部分と後ろの部分とに関連がついていないこの文は、意味を捉えるのが難しい。
しかし、「救急車」と示唆されれば、「119に電話して救急車に乗れたので、病院に早く着いた」のかと想像がつきそうだ。前後の部分間に関連がついて、「わかる」という感覚が得られる。

①文章や文において、その部分間に関連がつかないと、「わからない」という状態を生じます。
②部分間に関連がつくと、「わかった」という状態を生じます。
③部分間の関連が、以前より、より緊密なものになると、「よりわかった」「よりよく読めた」という状態になります。
④部分間の関連をつけるために、必ずしも文中に記述のないことがらに関する知識を、また読み手が作り上げた想定・仮定を、私たちは持ち出してきて使っています。

西林克彦『わかったつもり~読解力がつかない本当の原因~ (光文社新書)』

一方、この「部分間に関連がつかないこと」を、内田樹さんは「意味の亀裂」と呼び、これこそが実は「私たちを暴力的なほど奔放な空想と思索へと誘う『物語発生装置』」だと言っている。

この「意味の亀裂」こそ、実は、私たちの知性と想像力を激しくかきたて、私たちを暴力的なほど奔放な空想と思索へと誘う「物語発生装置」なのです。私たちが意味の亀裂を弥縫するためにその裂け目に架ける「橋」のことを、私たちは通常「解釈」と呼んでいます。

内田樹『物語るという欲望』

LOSTやパーソンオブインタレスト(好き)、スター・ウォーズ/フォースの覚醒、スカイウォーカーの夜明けの制作を担当したJJエイブラムスが「謎」というキーワードを取り上げ、20分弱話をしているTEDトークがこちらにある。
彼は、時として謎が知識より価値を生むこと、
謎が無限の可能性と潜在性の感覚を生むこと、
謎が見るものを引き込むこと、
映画『卒業』の中のデートの場面で、そこに彼らがいるのに話していることが一言も聞こえないから生まれる魅力やロマンチックさに触れた後、
「究極的には 謎の箱というのは 私たちみんな」
であることを語る。

人間の内面はブラックボックスで、自分のことでさえ中に何が詰まっているかわからないことがある。
拙い言葉や表情の変化、仕草や目線などで内面が小出しにされることで、少しその人のことが分かり、
また次の謎が出てくる。
人間は謎そのものであり、だからこそ物語る欲望を刺激され(つまり、人について話したくなり)、人に魅力を感じるのかもしれないと思った。

逆に、作者という神の手によって、人物の内面まで脈略を以って語られてしまう物語に魅力を感じづらいのは、そういうことかもしれないとも感じる。

家の骨

修論を提出した足で、研究室の准教授の個展を見に行った。

美術館や展覧会は一人で回りたい。それか自分よりゆっくり回る人とが嬉しい。
待ち時間は好きだけど、待たせ時間が苦手で、特に展覧会ではぼーっとゆっくりしていたい。

作品を前にリアルタイムで感想を語り合うのも苦手なことに気付いた。
なにも考えていないからである。
あ、埃が飛んできたなとか、あ、これは泡かなとか、目の前で起こっていることをぼーっと眺めて、
この感じはなんだろうな…?という分からない感覚の中で、ぼんやりした感覚がちょっとずつ明瞭になっていくのをぷかぷか待っている感じで過ごしている。

この彫刻を眺めていて、家の骨みたいだなと思った。
家は生きていたのかな、とも思った。

片付けコンサルタントのこんまりさんの番組の中で、片付けをする前には必ず家に挨拶をするのだが、
座って、しばらく無言で目を閉じて家に挨拶をするそのシーンが思い浮かんだ。
挨拶の儀式を終えて、ある家の主人がこう言う。
「今までこの家に語りかけたことはないけど いいもんだね
”君はいい家でいてくれたよ(This has been a very good home for us.)”って」

一人が良いと言ったけど、同期6人でぶらぶら回るのも、電車に乗るのも楽しかった。