〜「文学」の「私」を疑うことはブーメランのように「あなた」の「私」に跳ね返る仕組みです。
「楽しむ」以外にそういう「本」の読み方があるのです。
本当に面白くなさそうで面倒でしょう。それでもはじめましょう。
大塚英志『文学国語入門』
それでもはじめましょう。
「面白いからついてきて!」と引っ張ってもらえるのも魅力的だけど、「面白さを見つけるのはお前だ」と突き放されるのも良いな。
実際世界に面白さを見つけるのは自分だし、あなたはそれができるよね信じてるよと言われているようでもある。
本文中、新指導要領についての記述がある。
何かと騒ぎになっていたのを覚えている。
マニュアルや契約書といった、「文学」とは対極にある文章を読み解くことを学ぶ「論理国語」を重視し、対して「文学国語」は軽視されるというような報道がされていたように記憶している。
しかし、原文に目を通したことは無かった。
再生数は少ないが、この動画が一番わかりやすかった。
現行のものとの比較、小中高でどのように目標が構成されているかがまとめられている。
原文:平成29・30・31年改訂学習指導要領(本文、解説)
原文を元にしたスライド:新しい学習指導要領の考え方-中央教育審議会における議論から改訂そして実施へ-
まだ全く浅くしか読み込めていないかと思うが、今の段階で目標の構成に目を通して抱いた印象は、
従来のものは、「国語ってなんで勉強するの?」という問いに対して、
「国語は大切だからだよ」と答え、「国語はなぜ大切なの?」という問いに対して、「国語はとても大切だからだよ」と答えているような、「国語科」の中で学びが完結してしまうような感覚を受けた。
対して新指導要領は、そもそもなぜ国語が大切なのか。何のために国語を勉強するのか、どういった力がどのように育成されることを目指しているのか、これらが私の頭でも読み取れるような構成になっていた。
しかし新指導要領には、国語科は「他者と社会の中での関わり方」の涵養※が目標だと書かれています。
大塚英志『文学国語入門』
それこそは、明治期に成立し「転スラ」にまで至る日本の「近代文学」が一貫して問い続けてきたものなのです。「私」が「社会」の中で「他者」と生きる手立てを理解するツールとしての「近代文学」。その読み方を学ぶため、まずは「文学」を「疑う」ところから始めましょう。
涵養:自然にしみこむように、養成すること。無理のないようだんだんに養い作ること
実際の授業や教科書がどのように変わっていくのか興味深い。
『文学国語入門』は、付箋をぺたぺたと貼りながら一通り読んでみたがなかなか咀嚼するのが難しく、
もう一度じっくり読んでいる。
今日の猫
