小説を読む喜びを濃縮した小説

トラックいっぱいの小説を読む喜びを手のひらサイズに濃縮したような、密度と深度を持つ小説があって、それが上橋菜穂子さんの小説だと思う。「鹿の王」について。

「旅し没入する喜び」
「世界の見え方の違いを体験する喜び」
「見たことない食べ物や景色を想像する喜び」
「自分に無かった哲学に触れる喜び」
「絡み合った事情の中で登場人物がどこへ向かうのか見守る喜び」等々、
これらが、上橋菜穂子さんの繊細で確かな描写力、構成力によって喚起される。

こんな見たことないことだらけの世界の中を、こんなに没入して歩き回れることってある?という感じで、
僕なんか、道を歩いてる時は自分が歩いているということもままならないまま歩いていることがあるので
そんな現実の旅よりよっぽどしっかり世界を旅してるんじゃないかと錯覚してしまう。

この感動をなんとか言葉にしたいと思うので、また時間をおいて言葉を捻り出してみようと思う。

今日の猫

散歩、ネット散歩

散歩するのが好きで、特に18時台の散歩は、いろんな家から晩御飯の匂いとシャンプーの匂いが交互にしてきて良い。夜は日常と非日常が入り混じる時間帯だと思うので、家の周りのよく知った場所でも夜に散歩すると1.5倍楽しい。あと夜の散歩は考えが整理される。

外を歩く散歩と同じくらい、ネット散歩をよくする。
何かを知りたくて検索をするんだけど、毎回長い寄り道をしている気がする。

普段どんなことしてるか思い出して書き出してみる
・「絶対ヒットしなそうだな」「的確な検索ワードじゃないだろうな」というキーワードで検索してみる
打ち間違いとか、誤字とかも含む。
あはは打ち間違えちゃった、っていうワードで一回あえて検索してみる。
的確で端的な検索ワードだと、屈強にSEO対策されたサイトで上位を独占されていることが多い。適当に検索すると、面白い辺境のサイトがヒットすることがある。

・とりあえず末尾に「filetype:PDF」とつけて検索する
filetypeはファイル形式を指定できる検索方法だが、こうやって検索するとPDF形式で一まとまりになっている文章が出てくる。本にするための原稿や、プリントして配る用の会報紙とか、論文みたいなものとかがヒットする。同じ分野の周辺のこともまとまって載っていること、それもしっかりまとまっていることが多いので、漠然とこのキーワードまわりのことについて知りたいんだよなあってときとか重宝する。

・好きなサイトでサイト内検索してみる
AXISとかJDNとか、ロケットニュースとかほぼ日とかwiredとか電通報とかジモコロとかQuoraとか登録してるメルマガとか。そのワードについての思ってもない視点からの記事とか、全然関係ないけど面白い記事に巡り会ったりする。
いいな!っていうサイトはいくらでもあって、でもその全てのサイトの最新記事を毎日全部追うことは難しいので、こういう巡回の仕方をする。

・この人はなんて言ってるだろう?とTwitterで検索してみる。
検索窓で「ワード from:その人のID」で検索すると、そのワードが入っているその人のツイートがヒットする。

今日したネット散歩について書く。
最初は、小説家の三秋縋さんが以前twitterで「いろんな話をしたあと、一番最後に答え合わせのように名前とか自己紹介するのが良いよね」というようなことを言っていたような気がして、そのツイートをもう一度見たいということから始まった。

「僕は花の名前を知らなすぎる!」と思いました。音楽に詳しくなることでラジオが楽しくなるように、スポーツに詳しくなることでオリンピックが楽しくなるように、歴史に詳しくなることで観光旅行が楽しくなるように、花や鳥や星の名を知ることで日常がより鮮やかになるなんてわかりきったことなのに。

三秋 縋

名前を認識するってことは、そのものの存在を大事なものだと認めることだと思った。
名前というキーワードに関心を持ったので、調べてみることにした。

まず自分のメールボックスで検索してみる。

漢字のデジタル化に関しては、様々な形を持つ漢字において抽象度の粒度をどの程度に設定してどのように包摂するのか、という設定がまず重要となってくる。字形の異なる漢字においては、「語として(つまり字種として)別のものを示している差異」「異体字としての差異」「デザイン的な差異」など様々な基準を考えることが出来、一方でそこに誰もが納得するよう画一的に線を入れて分断させるのも到底出来そうにない。殊にこれが人名用漢字となってくると、それがアイデンティティを表すために、わずかなデザイン差にこだわりを持つ人が存在することも充分に理解出来る。
自身の例で恐縮であるが、筆者の名字に使われている「片」の字形も、明治期の戸籍・昭和期の戸籍・現在の戸籍とそれぞれで若干形が異なっており、実際親族の中には「現在の戸籍にある漢字は自分の本当の名前ではない」と嘆いている者もいる。

戸籍情報システムを取り巻く環境変化と文字情報基盤の活用について 人文情報学月報第122号【後編】

想像するのに時間がかかった。
どんな形やフォントであろうが、「同じ漢字とする」という共通認識を持っていれば良いのではと思っていたが、試しにここにある「片」という漢字を検索してみるといろんな形が出てきて、たしかにこの微妙な形にアイデンティティを感じたりするんだろうなとも思えた。

自分のように言葉の仕事をしている人を含め、デザイナー、フォトグラファー、イラストレーターなど、あらゆる「ものをつくる仕事」をしている人たちにとって、制作物に記載されるクレジットは大事な意味をもつ。それは自分がその仕事をしたことの証であり、少し大げさに言えば存在証明のような役割を果たすものだ。また名前が出るのは責任が発生することでもあって、自分の名前で文章が世に出るからには納得できるものにしなければいけないと思う。

1冊の本がかたちになるまで Lobsterr Letter

名前を載せること、クレジットの在り方についての記事だ。
youtubeでメンバーになってくれた人の名前を手書きで書いてる事例があったり、どの関わりの人まで名前を入れるかとか、いろんな考える視点があるなと思った。


レコードプレーヤーを買った。スクラッチを練習するためだ。HeadacheSoundというご機嫌な名前の会社が作っている、OMNIなるスクラッチ用ポータブルレコードプレーヤーである。

真夜中のはんだ付け 頼りない話

HeadacheSound、良い名前だな。

次にWIREDで検索してみた。
たくさんヒットする。
目についた面白そうな記事を開いた。

あのレトロゲームで“対戦”できる! 相手の顔を見ながら遊べる無料プラットフォーム「Piepacker」の実力

友人や家族と同じ画面を見ながら遊んでいた懐かしのレトロゲーム。相手の顔に浮かぶ喜怒哀楽の表情を見ながら遊ぶという昔ながらの体験をオンラインで再現しようとしているのが、無料のゲームプラットフォーム「Piepacker」だ。

相手の顔を見ながらレトロゲームができる無料コンテンツとのこと、全然「名前」とは関係ないけど面白い。
表情、というキーワードを得た。

気持ちまですっきり。

ほぼ日で表情と検索してみる。
上の記事がヒットして、その関連記事から
すてられないもの。[1]「すてられない紙たち」
このページに行ってみた。

紙を整理する引き出しには一か所、
仕事ではつかえなくなった
細かく切った紙の救済スペースを作っています。
千代紙を使ってたくさん仕事をしたあとは、
細長い紙がたくさんのこりますので、
これで豆本をつくったり、栞をつくったり。

小さなかけらとなった紙を入れたその引き出しの中が
一番好きな場所かもしれません。

紙を入れておく棚、いいなあ。

「表情」から逸れた。
出発点の三秋さんのtwitterに戻ってきて「表情」と検索してみる。

他人の顔色ばかりうかがっている人がどんな人生を送るかと言いますと、表情の小さな変化に敏感なので、一見感情の起伏に乏しいあの子が見せた一瞬の貴重な微笑みを、他の人達が見逃す中、一人しっかりと目撃することができてしまいます。やったね。

三秋 縋

やったね。

今日の猫

でるでる

ピザの赤ちゃん

何が?

お茶が良く「でるでる」という意味らしい。よくこんな怪しいパッケージにしたな

はじめる→やさしい→できるよ
やさしい→できるよ→がんばり
の進化過程いいな。

自分のあり方に痛みを感ずるときに
人の痛みに心が開かれる

今日の猫

インターネットをもっともっと信じられない場に

「どうすれば戦争が終わるか知っていますか?」
「それは、平和を願い、憎むことをやめれば…」
「いいえ。戦争は、国家間の交渉の手段でしかない。憎まなくても戦争は起こる。
どうしても手に入れたい領土、資源、利権、思想や宗教やプライド、それらの目的を巡って戦争は起こる。
だから、その目的がはたされれば、戦争は終わる。
または、利益に見合わない数の人が死ねば、戦争は終わる。
怒りも憎しみも、戦争を有利に運ぶための手段でしかない。
僕はそんな感情に興味はありません。」
アルドノア・ゼロという作品中の伊奈帆くんとアセイラム姫さまの会話だ。

「どうすれば赤の他人への配慮に欠けた詮索、誹謗中傷が無くなりますか?」
「それは、相手の気持ちに立って考えて、自分の人生に目を向ければ…」

眞子さまと小室さん周りのニュースが本当にきつい。
できるだけ目を通さないように情報を避けていたが、他人の話に興味のない人や応援している人ほど声が小さく、配慮に欠けた人たちの声は大きく、それが世論のように取り上げられるのが癪なので、応援している旨だけSNSで発信した。
他人の人生に興味持ちすぎ人間を非難したり、相手の気持ちに立って考えてと啓蒙したりしても仕方がないだろうし、他人の話に興味を持つ人は多く、人は心の底に冷酷さや悪意を持っているものだと、人間の悪い部分から目を逸らしていてはいけないんだなと思う。
だから漫画アプリに設けられた匿名の雑なコメント欄に、作者を誹謗中傷し、自分の思った展開にならなければボロカスにコメントを書く人が出てくるのはすっごく自然で避けようが無いと思うし、作者さんが見える場所にそんなコメント欄を用意してしまうことは悲しいことだなと思う。

なんかもう、すっごいありそうな会社の実在してそうで実在していない合成人間を一定数作り上げて、有り余った人間の悪意のサンドバックにするのはどうですか?インターネットをもっともっと信じられない場にしていき、信じられないことが誰からも大前提になる世の中。
虚構新聞、大好きです。

今日の猫



鑑賞と体勢

21_21という美術館でアルバイトをしたことがある。
作品を鑑賞する人々を見ていると、みんなほとんど同じ体勢で作品を見ていることに気付く。
手を後ろに組んで、ゆっくり足を若干地面に擦り移動しながら作品を見る。
これが芝生の上に座りながらとか、みんなが各々自由に変わった体勢で見たら見え方も変わるんだろうか。

主従関係が強い時代で、すべての人が平等ということを示すために茶室の入り口は低く(頭を下げなくてはならない)狭く(刀を外さなくては入れない)なっていたという。
2kmくらいルームランナーで走ってからじゃないと見れない作品とか、きっちり服を着込まないと寒すぎる展示室とか、いろいろとありそうだけどそれらは押し付けがましそうでもあり、でもみんなが同じ体勢で作品をしっぽり眺める感じもなんかしょっぱい。

学部3年の頃、暗闇の中をペンライトで照らしながら見進める展覧会を学祭で開いたことがある。
「皮膚」「スペキュラティブデザイン」をテーマにしていた。
拙く手探りな展示だったと思うし、それを言葉で大袈裟に飾ることもないと思う。
部屋を暗くしてみるっていうのも大それたアイデアではない。

でも、「自分で照明を照らす」「光の強さで作品との距離感が変わる」「照らした先を一緒に見る」
っていうのは面白かったし、多分明るい部屋だったらサラッと見て終わっていたかもしれないところを、
みんなあちこち探しながらゆっくり見てくれていたように思う。

今日の猫


人の中身が変わること

死ぬのは怖いけど、自分が自分のまま中身がまるで別人のようになってしまうことがもっと怖い。
脳梗塞の後遺症で、それまでとても穏やかだった人が忘れっぽく粗暴な性格に豹変し、家族に当たり散らす、とか。その当たり散らされる家族目線のエッセイ漫画など読むと非常に辛くなる。

そういう意味で一層健康には気を遣わねばと思うけど、大きな健康被害が無くても人の中身って簡単に変わっていってしまうものなのかなとも思う。仕事をし始めて人が変わった、とかよく聞くが、日々にゆとりがなくなって大変になると人が変わってしまったりするんだろうか、嫌だなあと漠然と思っていた。

先日、精神科医の名越先生のこの動画を見た。

好調な時ほどかえって人を傷つけやすく、調子が悪い時、落ち込んでいる時は人の優しさが身に沁みるよねという話が動画の一部で語られていて、自分のこれまでを振り返っても身を持って腑に落ちてしまった。

「人を傷つけたことが無いのではなくて、傷つけるほど誰かと近付いたことが無かった」という一言が記憶に残っていて、人と人は近ければ傷つけてしまうのが当たり前だとは思うのだが、それでも、自分の調子の波には意識的になりたいと思う。

今日の猫

公園でカレー食べてたらいつの間にかいた

まだ足が若干見えている

「男の人って基本ロマンチストじゃないですか」について

「男の人って基本ロマンチストじゃないですか」って言うのを聞いたことがあって、
それについて主語が大きいことや性で括ることの良し悪しは気にならなくて、
性で括ったり主語を大きくしたくなる理由が何かあるんだろうなと思うし、言いたいこともなんとなくわかる。

「いまむってロマンチストだよね」と言われたこともある。

ロマンチストってなんだろうと考えた時に自己陶酔っていう表現が浮かぶ。
「これをしてる自分が好き」「これを言ってる自分が好き」みたいなことかなと思う。
「ロマンチストだよね」という言葉に皮肉が混じっているなら、自己陶酔的だねという意味も入っているんだろうなと思う。

自分の発言や文章にその気があるのはちょっと分かっていて、何か言いたくなった時に、これは本心なのか、それとも「これを言っている自分どや」なのか考えることがある。それが本当に思うことではなく、「これを言っている自分どや」の場合、踏みとどまってもう少し何が言いたいか考えるようにしている。


少し違う視点でロマンチストについて考えてみる。
「男の人ってロマンチスト」という表現を借りて対義語を考えた時に、「女の人ってリアリスト」となるのかなと思う。リアリストっていうのを「地に足がついてること」と捉えながら、日頃の(誤解を恐れずに)ステレオタイプな考え方で言う「女性っぽい」話(賛同をする訳ではない)(注釈つかれた)をするなあと思う人の雑談を思い出してみると、「バイト先の人間関係」「彼氏の話」「誰かの就職の話」「職場の話」等が思い浮かぶ。

対して男性陣の雑談は、「〜の話」とまとまらないような断片的でどうでもいい話や、地に足のつかない話が多いように思う。(真剣な話をしたくてしている人に対して「すごいね〜自分なんかしょうもない話しかしてないよ」と、話の内容ではなく話し手のスタンスの意識の高さに話題をスライドしてくることを勝手に「ダウナーマウンティング」と呼んでいて好んでいないので、そういう意図がないことを明記しておく)
ロマンチストって、「地に足がつかない話」を好んでしている人のことかなとも考える。

どっちかだけってことはなくて、みんなどっちもあるはずだけど、
男性はそういう地に足のついた話を限られた少人数にしかしない人が多いのかなと思う。


今日の猫

棋士の永瀬さんに似てるな

しつけ⇆対話

成績を上げることよりも、子供が社会の中でも落伍してでも、横の関係でいたい。
この人が横の関係を学んで、人と対等に話ができて、人を尊重しつつも自分のプライドを保つことができたら、
どこかでこの人は生きていけるであろうという信念がどこかに、こんなへなちょこな親にもあるんです。
(略)
横の関係で生きることがこの世界で生きていく力になると信じている。
それが本来の人間のあるべき関係性だと信じて疑わないんです。

名越康文『名越康文TV シークレットトークyoutube分室

「横の関係」「対等に話す」「人を尊重しつつも自分のプライドを保つ」とはなんだろう。
それらを聞いて私が思い浮かべることと、名越さんが思い浮かべていることは全然違うんだろうと思う。

以前友人が受講していたHintゼミの内容を思い出した。(資料がネットに公開されていることもあって、内容を教えてもらっていた)
「幸せ視点の経営学」を学ぶ場だという。

この講義は非常によくできていて、スライドで言うと150ページもあるのに読みやすい。
印象に残っているのは、その友人が参加したプログラムの4つ目の回で
「共感を育む対話の技術」というものだ。

何回も反芻し、実行する難しさを噛み締めながら、子供たちとものづくりをする教室のアルバイトで実践をしようとしていた。

特に印象に残っている内容の一部(人間関係の悩み)(150ページ中の10ページくらい)について備忘録的に書き出してみる。

人間関係の悩みに向き合うときに、コミュニケーションの前提として、
「相手の問題」と「自分の問題」を切り分けて考えることが大切になる、というところから始まる。

具体的には、
1.まず問題の「所有者」は誰かを考える
a.相手が問題を持つ
b.問題なし(誰も困っていない)
c.自分が問題を持つ
の場合でそれぞれ切り替える。

この際に(いや常に)「推論のはしご」をゆっくり登ることが必要になる。

そして相手が問題を持つ場合、以下を大切に会話をする。
a.1.「問題所有の原則」
問題を人から取り上げてはいけない。他者が問題解決すると、考える力や自尊心を奪ってしまう。問題は人生の宿題であり、解決策は所有者の心の中にある。
a.2.「能動的な傾聴」
自分の考えは横に置き、相手の経験していること、思考や感情に共感し「今どんな気持ちなのだろう」「何が不安なんだろう」と相手の内面に意識を向け、耳を傾け続ける。
a.3.「未来の質問」
自分のペースで問題を話すことで、相手の感情が整理されてきたら「一番大切なことはなんだろう?」「どのためにどうしたい?」と未来に向けた質問で、心の中にある解決策への気づきをうながす。

自分が問題を持つ場合、以下を大切に会話をする。
b.1.「わたしメッセージ」
相手の行動が嫌なとき「あなた」主語で責めてしまいがち。「なんでいつも〜なの」「もっと早く〜してよ」でも怒りは二次感情(不安、寂しさ、辛さ等が根底にある)こんな時には「わたし」のありのままの気持ちや思いを伝えよう。
b.2.「能動的な傾聴」
自分の気持ちを「私メッセージ」で伝えたあとは完全に気持ちを切り替えて、相手の思考や感情に共感する。「今どんな気持ちなのだろう」「何が不安なんだろう」と相手の内面に意識を向け、耳を傾け続ける。
b.3.「第三案の共創」
無理にどちらかの案を通すのではなく、相互に理解し合うこと。
①お互いの欲求や問題を理解し合う
②それを解決するための第三案をともに考える
相互理解には「自分メッセ」と「能動的な傾聴」が大切。

という内容だ。

いまだに親と子といえば「しつけ」、そして「しつけ」という響きから、縦の関係ばかり思い浮かんでしまっていた自分には、冒頭の名越さんの発言は新鮮な考え方だった。

そして名越さんは、子供相手にも一人の対等の人間として、上記のような対話をしていきたいんだろうな(こういう対話ができる人になってくれれば良いなと思っているんだろうな)と、息子さんとのエピソードを聞いて思った。

今日の猫

ピクニック/「自分の言葉に体重が乗らなくなるトリガー単語」

ピクニックをした。
昨日4時くらいに寝たのに、気持ちの良い秋晴れのおかげか9時にはすっきり目が覚め、
雑に弁当をこさえ、自家製ポテトチップスをカレー粉と塩(南の極み)で作り、
大きめの公園まで持って行って食べた。
その後、寒くてかなわんと思うまで若林恵さんの『さよなら未来』を読み、千葉市美術館に向かった。

千葉市美術館の図書室、芸術やデザイン系の本がまとまっていて面白かった。ほぼ貸切だった。
もう少し人文寄りの本が置いてあることを期待したけど、修士論文的には伊藤俊治さんの『電子美術論』と出会えたのが幸運だったなと思う。

インスタレーション的な展示について文章で記録されることに関して、大変失礼ながら「それだけのことを言葉を用いてそれだけこねくり回せるんだな」と感じてしまうことがあるが、実際体験しない、当事者じゃないことの弊害はこういうところに出てくるんだろうなと。

そういえばあまり関係ないが、話している時に「自分の言葉に体重が乗らなくなるトリガー単語」的ものがあって、使うのを控えようと意識していたものがある。「解像度」「余白」「身体性」とか。考えた結果使うことはあるが多用していた時期があったため。

後半は『死ぬまでにやりたいゲーム1001』という本をひたすらペラペラめくってメモしていた。

一日鼻水が止まらず不愉快だった。
本当に寒くなった。
昨日はシチュー、今日は鍋を作って食べた。
鍋は本当に楽で美味しい。

今日の猫

「読む」のはじまりと終わり

読んでいる最中に意味がわからなかったことや、意識をすり抜けていったことが、読み終わってしばらくしてふと全然関係ない瞬間に意味がわかったり、心を動かしてくることがよくある。そういう意味で読むという行為は本を閉じて終わるものではないのだと思う。

『不滅のあなたへ』という漫画作品を読んでいた。
主人公フシは、石のような無機物から人間まで、さまざまなものに姿を変えていく不死の存在である。
姿を変えられる能力を持つ存在のファンタジー物語と捉えながら読むことができるが、
読み終わって生活している中でふと、「その人や物がいなくなったとしても、心の中で生き続けるということ」が描かれているのかなと腑に落ちた瞬間、涙が出た。
この作品は読んでしばらくして急に意味がわかってくることが何度もあった。

小説にかぎらず、創作物はなんでもそうだと思いますが、「読む」(あるいは「見る」「聞く」)という行為を終え、作品が心のなかに入ってきてからがむしろ本番というか、するめのようにいつまでも噛んで楽しめる。一冊の本を読むという行いは、ある意味では、そのひとが死ぬまで終わることのない行いだとも言えると思うのです。

三浦しをん「『罪と罰』を読まない」より

では読むがいつ始まるか、についての実験が「『罪と罰』を読まない」ではされていた。
すごく楽しかった。
秘密の地図を持って4人で神秘の森を冒険している冒険物語を読んでいるようだった。

『罪と罰』をまだ一文字も読んでいないときから、我々四人は必死に「読んで」いました。いったいどんな物語なのか。期待に胸ふくらませ、夢中になって、「ああでもない、こうでもない」と語りあいました。それはなんと楽しい経験だったことでしょう。ページを開くまえから、『罪と罰』は我々に大きな喜びを与えてくれたのです。

三浦しをん「『罪と罰』を読まない」より

今日の猫

誰かが何かを食べているのを見ると安心する