じっさいに読むこと

小説が果たす役割の一つとして、公式な記録や歴史書からはこぼれおちてしまう私的な記憶を刻み込む記録としての役割がある。
自分だけの記憶を言語化しようとしてありふれた言い回しや表現に頼ってしまう時、しばしば「自分だけの」という固有性が失われてしまう。
今の自分の中では(言葉にならなくても)オリジナルで新鮮なまま保存されていると思っていても、他者や未来の自分に伝える際に、そういった喪失が起こってしまうのだろうと思う。

小説家が初めて世界と向き合うように、感じ、触れ、見つめ、澄ましてつかみ出した言葉に触れることは、
そういった喪失を防ぐことになるのだと思う。
そして、そのような「言葉に触れること」とは、ある本「についての」知識を得ることではなく、「じっさいに読む」ことであるのはおそらく言わずもがなであり、今の情報の流れが速い世の中で私はどうしても知った気になってしまうことが多いなと自省する。

古典とは、その本についてあまりいろいろ人から聞いたので、すっかり知っているつもりになっていながら、いざ自分で読んでみると、これこそは、あたらしい、予想を上回る、かつてだれも書いたことのない作品と思える、そんな書物のことだ。

須賀敦子『塩一トンの読書』 『本なんて!作家と本をめぐる52話』より

ある本「についての」知識を、いつのまにか「じっさいに読んだ」経験とすりかえて、私たちは、その本を読むことよりも、「それについての知識」をてっとり早く入手することで、お茶を濁しすぎているのではないか。

須賀敦子『塩一トンの読書』 『本なんて!作家と本をめぐる52話』より

今日の猫

「移動」と「旅」の境

「移動」と「旅」の間に境目をつけるのは難しい。
目的地があって手段としてする移動に対して、移動自体が目的になっていることを旅と呼ぶか、いや
目的地に到着するために仕方なくする移動にも「旅」を感じることがある。
「旅とは、住んでいるところを離れて、よその土地を訪ねること」という辞書に載っていた解説も、いささか杓子定規な印象を受けた。

両者に明確な区切りは無く、
ただ、そこに含まれる「未知」と「偶然」の分量によって、多ければ多いほど旅に近付くのではないかと思った。

私たちは旅、未知と偶然の要素を多く含んだ旅に出るとき、どこかへ行きたいとか、なにかを調べたいとかなどといった、なんらかの意味で目的を持った自分の意思とは別に、一種のあやしい胸のときめきを感じる。

中村雄二郎『好奇心 知的情熱としての』

旅という単語から一番に連想する本が、多和田葉子氏の『地球にちりばめられて』だ。

ざっくりと
留学中に故郷の島国(たぶん日本)が消滅してしまった女性が、スカンジナビアの人々に伝じる独自の言語を作り出して生き抜きながら、言語学を研究する青年と共に同じ母語を話す者を捜す旅をするお話、とまとめてみた。

大辞泉で実施された「あなたの言葉を辞書に載せよう。2015」という企画で「旅」へ投稿された作品の中に、以下のようなものがある。

想像を働かせ、感じること、触れること、見つめること、澄ますこと。そして、受け入れること。

ゆずさん

『地球にちりばめられて』にぴったりな「旅」の解釈だと思った。

「恋人は古いコンセプト。わたしたちは並んで歩く人たち」

Hiruko- 多和田葉子『地球にちりばめられて』 より

複数言語、また創作言語の交雑を通して、物事に直に触れ、見つめ、感じ、澄ます。そして受け入れる。この話のそういう部分に魅力を感じた。

今日の猫

何度もゆっくり読んでみる

今の家に住むようになって、駅前の商店街を軽く1000回は行き来していると思う。
1000回以上通っていても、未だに新しく気付くことがある。
この家にはこんな面白い位置に室外機がついていたっけ、とか
このお店のロゴ、こんなに堂々とした書体だったっけ、とか。

自分より感じる網目がずっと細かく、一度通るだけでもたくさんのことを発見して吸収している人がいるんだろうなと思う。

川上弘美の『神様』を一度読んで、同じことを感じた。
魚を捕まえてくれたくま。「わたし」が昼寝している間に魚が三匹に増えていて、愛おしくなった。
読んだ後、「わたし」と同じように「悪くない一日だった。」と思った。
そういう感想で十分だと思ったし、満足もするが、
「もっとずっと感じる網目が細かく、一度通るだけでもたくさんのことを発見して吸収している人がいるんだろうな」と、全力で走りたいのに足に十分に力が行き届いていないような歯痒さを感じた。

ゆっくり二度目を読んで、うーんと言いながら三度目を読んでいくと、読むごとに違う発見があった。
「くま」は「熊」ではなく、「クマ」でもない。
近隣にくまが一匹(頭ではなく匹で数えていて、小さめのクマなのかなと思う)もいないことから、名を名乗る必要がないということだった。例えばアメリカ人でスケボーが趣味のマイケルという友人がいたとして、彼のことを「アメリカ人」と呼ぶのとくまを「熊」と呼ぶのは近いと思う。「スケボーの彼」と呼ぶのと「クマ」が近く、「マイケルくん」と呼ぶのと「くま」が近いと思う。
そういう距離感で「わたし」は「くま」のことを認識していたのかなと思う。

「呼びかけの言葉としては、貴方、が好きですが、ええ、漢字の貴方です、口に出すときに、ひらがなではなく漢字を思い浮かべてくださればいいんですが、まあ、どうぞご自由に何とでもお呼びください。」
とくまは言うが、くまがわたしに語りかける台詞においては「あなた」が使われている。
一人称のこの小説においては、「くま」に「わたし」がどのように見えているのかはわからない。
くまがひらがなではなく漢字の方の貴方を思い浮かべながら呼んでくれているかは見えない領域であり、
だからこの「あなた」は、語りの空白なんだろうなと思う。
この語りの空白を通して、くまがわたしをどう見ていたのかを、読者が想像を広げていけるのだろうと思った。

「速く読めなくて良い。ゆっくりで大丈夫」と自分を許し、何度もゆっくり読んでみると、
小説の奥へ奥へと入っていく感じがする。
遅読という考え方や、平野啓一郎さんの提唱するスロー・リーディングという考え方、『本は読めないものだから心配するな』という本と出会ってから、本に触れるのが楽しい。

今日の猫

雨だー

「カリスマ性の皆無さ」と「自説を無限に修正する可能性」

「かもしれない」が口癖で、つい「〜なんじゃないかな…」が語尾についてしまう。
断定ができない。

SNS等でキャッチーな肩書きを掲げ、広義の後輩に向けて「これはこうだ」と力強く断定し発信している人を見ると、その自信の端くれでも欲しいなと思う。

この自信の無さは長所とも言い換えられそうで、でも自分としては、もっと及び腰にならずに気にせず自分の意見を言ってしまいたいと思っていたし、そういう自分に「カリスマ性の皆無さ」を感じていた。

「自分の主張は間違っている可能性もある。」という前提に立つことのできる知性は、自説を無限に修正する可能性に開かれている。それは「今ここ」において付け入る隙なく「正しい」議論を展開する人よりも、将来的には高い知的達成にたどりつく可能性が高い。

内田樹『話を複雑にすることの効用』

しかしこの文章で、自分で感じていた「カリスマ性の皆無さ」を「自説を無限に修正する可能性」と言い換えてもらったような気がした。

経験のある方はご存知だろうが、「私の主張は間違っている可能性がある。」と思っている人間たちが集まると、その議論はたいへん迅速に進行し、かつ内容は濃密で深厚なるものとなる。

内田樹『話を複雑にすることの効用』

たしかに経験がある。
自分の立論の整合性や妥当性と他人の立論の破綻を過大評価し、自分の立論or他人の立論という対立軸から離れられない人とより、「私の主張もあなたの主張も(広い意味で)間違っている可能性がある」という前提のもと、Aなのか、Bなのか、という二項対立ではなく、昇華した中間としてのCを考えられる人との方が、スムーズにことを深堀りしていける。
そういった人相手だと、AとBの意見の遠さを楽しみながら対話ができる。
私もそういう人でありたいと思う。

今日の猫

作品に親しむ気持ちが自然に湧いてくる問い

「ケイシー」はどのような人物か、また「レキシントンの古い屋敷」はどのような屋敷か、まとめてみよう。

三省堂『精選 現代文B』

国語の教科書に載っていた、村上春樹『レキシントンの幽霊』を読んだ。
その「学習の手引き」の中の一つ目に、上のような問いがあった。

僕だったらの話だが、「『ケイシー』はどんな人物かまとめてみよう」と言われるより「『ケイシー』と今度会う予定ができました。どんな話題を持っていってどんな話をしますか?」と問われた方が、直に作品に触れていく感覚がある。

例えば犬の話をしたいなと思う。彼の飼い犬のマイルズはどんな性格で、どんな食べ物が好きなんだろう。
柴犬を知っているだろうか。焼けたパンのような色をして耳が三角形をしている。
レコードはどこで何を見て買っているのだろう。今も生きていたら、spotifyとかは使ってるんだろうか。
彼のユーモアの源泉を知りたいなと思う。どんな本や映画がお気に入りなのか尋ねてみたい。

この作品の主題を捉えたり、一つ一つの表現が暗示する物事を把握するのは、一筋縄ではいかないように思える。だから、「学習の手引き」4つ目の問いで「『僕』は『レキシントンの幽霊』の体験をどのように受け止めたのだろうか、次の点に留意して話し合ってみよう」と突然言われて戸惑ってしまった。

雲を掴むような段階から頑張って前へ進み、捻り出すことにも価値があると思いつつ、もう少し、作品に親しむ気持ちが自然に湧いてくるような問いが細切れに存在していたら、「鑑賞する」という行為がもうちょっと身近になるのかなと思う。

今日の猫

体験そのものは消えてゆき、言語化された形で伝わっていく、のか

小説は基本的には虚構の話だが、「しかし文学ではない現実のできごとも、私たちが現場に居合わせることは少なく、仮に自分が見聞きしたことであっても体験そのものはやがて消えてしまうので、常に言語化された形で伝わっていく。」(小平 麻衣子『小説は、わかってくればおもしろい:文学研究の基本15講』)

そう考えると、小説を読んで豊かな言語化の手段に触れることで、自分の体験もより豊かで新鮮なものになっていくとも思える。これが小説を読む実利的な理由の一つだとも言える。

しかし「仮に自分が見聞きしたことであっても体験そのものはやがて消えてしまうので、常に言語化された形で伝わっていく。」という部分には、8割共感し2割共感しきれない部分もある。
2割について、例えば、ある音楽やラジオを聴きながらある土地を散歩をし、後日その音楽を別の場所で耳にした際に、「あの土地でのあのときの感じ(空気感とか気温とか気分とか)」が思い返されることがあるからである。それは全く言葉になっていないが体に残っていた感覚だ。

カメラは、視覚情報を外部に保存する装置だが、
逆に視覚情報を内部に焼き付ける装置が出てきたりするんだろうか。
身体に強烈な刺激を与えるながら視覚情報を得ることで、後に同じ刺激を与えるとそのときの感覚が呼び起こされる、みたいな。

今日の猫


「心の体重をどすんとかけて」する行為/散歩と音採集

手当たり次第に写真を撮る行為を止めて、ほんとうに「撮りたい」と心底思ったときに撮影した写真とか、一日一枚しか写真を撮らないと決めて心の体重をどすんとかけて撮影した写真は、日記と同じ効果がある。

小松正史『機械を捨て、まちへ出よう』

撮影する、見る、聴く、触る、鑑賞する、話す、食べる、読む、遊ぶ…など、
いろいろな動詞について、ここでいう「心の体重をどすんとかける」にはどうしたら良いだろう。

写真を一日一枚しか撮らないと決めるのは良い仕掛けだなと思う。
めちゃくちゃ重くてでかいカメラをあえて使っている写真家もいるらしい。

聞こえてくる音をメモ帳に書き出しながら散歩をすることがある。
今考えると、「心の体重をどすんとかけた」散歩だったかもしれないと思う。

以下はある日のメモ

雀が飛び立つパタパタパタ
駅が近くなってゆっくりになる電車のダダンドドン
電線から落ちる水滴のポトン
クロネコトラックが止まる前のブルルルルルピー
4人組女児先輩「普通の声これなんだよー!!すごいでしょーー!?」
「あの花なんだ?」「バラじゃないの?」「バラはこれ!」「ああああー!!!!」「それは叫んでるでしょー!」
なんかの虫の音「ピィ ピィ」
まだ遠くで叫んでる女児先輩「わああああ!」
飛行機の音ショオオオオ(ゴォォ)
濡れた道を走る車のシュワアアアアア…
電車の空調ドロロロロロ
電車のドアが閉まるとき「テンポン」
ウォーターサーバー売りの陽気なお兄さん「ドゥッハッハッ!」
エレベータの鳴き声「ピリリリリリル…」
僕と同じ無印のリュック背負ってる白シャツのお兄さんの歩く音ザッザッ


できる限り本当に聴こえた音を書き出そうとしている。
電車の音はガタンゴトンと言いがちだけど、よくよく聴くとダダンドドンに聞こえた。
記号としての電車ではなく、「あの環境であの電車があの線路の上をあのスピードで走っていた現象」が記憶されるような感じがする。


今日は免許更新に行った。

運動会のテントじゃん。

並んでいて、今免許更新で並んでる人、みんなほとんど自分と同じ乙女座ってこと!??
って気付いた。

今日の猫

翻訳とニュアンスの調律

英和辞典をペラペラめくっていると、たまたま”chew”の項目に目が留まった。

「かむ」という日本語を英語に訳すと、
bite:ひと口かむ
chew:よくかんで細かくする
crunch:音をたててかみ砕く
という風に、日本語では同じ「かむ」だが、
英語では明確に単語を使い分け、表現を区別しているらしい。

その項目を見て、例えば「噛み砕いて説明する」という表現も、
ひと口かんで「ほら」と続きは自分でかんでもらうのか、
よくかんで細かくして説明するのか、
音をたててかみ砕くことで、「こうやってやるんだよ」「楽しそうでしょ」と示すのか、
ほどくとニュアンスがいろいろありそうだなと思った。
一度翻訳を挟むことで、使おうとしている語のニュアンスが調律される。

英語学習のモチベーションは恥ずかしながら今のところあまりないのだが、
最近興味のあるジャンルのコンテンツが英語であることが多く、英和辞典が欲しくなった。
こういうものには、付箋が貼れたり線が引けたりする方が嬉しい。
自分に合う英和辞典を求めて古本屋を2軒訪ねた。

結果ライトハウス英和辞典を購入した。(おそらく最新版なのに古本価格で800円だった)
灯台のロゴのシンプルな装丁に惚れてしまった。

挿絵の雰囲気も非常に良い。
単語と訳がただズラッと並ぶだけでなく、積極的に図式を挟んでくれるのが嬉しい。
冒頭のように、ただペラペラめくっているだけでも目が留まるフックがあるのは良いなと思う。
また、こういう辞書は紙が分厚いとテンションが半減してしまうのだけど、紙の質も好きな感じだった。

良い買い物したな。

今日の猫







「共感ができない作品」は「没入感の損なわれる悪い作品」か?

僕が読んで感動して、すばらしい知恵の書物だと思っているものを、他の人はくだらない駄本だと思うことはよくあります。ちょっと考えると、「ふん、ろくでもない本だね」と切って捨てた人のほうが頭がよさそうに見えますけれど、書物との出会いという点で言えば、これは僕の「勝ち」なんです。他人が価値を見出せなかった行間に輝く価値を見出したのは、僕のリテラシーの性能がそれだけよかったということになるわけですから。

内田樹『街場の文体論』

又吉直樹さんが、たしか『夜を乗り超える』という本の中で「『共感ができなかった』と本を低評価する人がいるが、せっかく自分の感覚を広げる機会なのにもったいないし、読書はその感覚が広がっていく感じが楽しい」というような意味の発言をしていたように覚えている。

私も、数年ほど前まで主人公の心理や行動に「共感ができない」「理解ができない」作品が読めないことがあったし、何ならそういう作品を「没入感の損なわれる作品」として低く評価していた。
作者が1年とか、多くの時間をかけて書いた物語や心情を、なぜ一読程度で理解できると思ったんだろうか。
ある時期から、「理解できないことが作中起きた時、一旦あるがままを受け止め、なぜそれが起きたんだろう?なぜそう思ったんだろう?」と考えるようになった。作品を「先へ」ではなく「奥へ」と読み進んでいくイメージだ。

摂取すると濃いお酒を飲んで喉がカーッと熱くなるような(?)作品を読むのも好きになったし、
読んでからしばらく落ち込むような本も好きになった。
自分の価値観と沿わずに喉が熱くなったり、落ち込むような作品の中に、奥へ奥へと足を踏み入れていくことで自分の感覚が広がっていくような感じはたしかに楽しい。

「共感ができない作品」は「自分の感覚を広げてくれる作品」だった。
でもこれは、他人に強要してはいけない論理だと思う。
うまく言えないが、
一人で作品に向かい、「共感できない自分に気付き」「それを受け止め、受け入れ」そういった内省の中で「自分の感覚が広がっていく」のであり、感覚を広げることを他人から強制されるのはなんか違う気がする。

何が違うのかは違う機会に考えてみようと思う。

だから、積極的に内省し自分の感覚を広げようとしない他人に、
自分が感動した作品について語る気にはならない。
とりあえず見て!とも言えない。

今日の猫

好きなもの嫌いなもの

好きなもの、嫌いなものを書き出してみた。
嫌いなものが憎しみの塊みたいになってしまった。

好きなもの

食べ終わったと思ってたら奥の方に残ってたポテト-年末年始-本屋にいる時間長い人-眠いときに丁度調整で止まってくれる電車-察しが良い脇役-ケチャップ-充電100%-年越しの瞬間2355見てる人-男気ジャンケンに絶対参加しない人-皆でギュウギュウになって乗るタクシー-たこ焼き-恵方巻き文化-立体駐車場-ディスコードのボイチャ-食べたいときのサラダ-自分で焼いた硬めのステーキ-プラスチックカード-玄米カレー-ラジオ聴きながら散歩-存分に伸びた後の散髪-京成の電車の中の扇風機-いつの間にか結構ポイント貯まってるJREカード-足の小指-郵便局-湯船浸かりながら読む本-石鹸と晩ごはんの匂いがしてくる夕方の住宅地-小さめの段ボール箱-かるかん饅頭-薄葉印刷紙-細いペン先-看板-期限に余裕を持って手続きしに来たときの事務窓口-本の背表紙-キャスターが付いてない椅子-電波塔のシルエット-四角い消しゴム-個人経営のコインランドリー-深呼吸-ムーミン-団地の小宇宙感-空いてる電車での移動時間-ファミマのフワフワのホットミルク-ピンポン球-USBメモリ-2Bの鉛筆-給水塔-カキフライ-付箋-ピングー-Aadd9-目薬-アニメのイモムシ-鳥-耳栓-耳かき-低音-広々したファミリーレストラン-二度寝-ヘイホー-高くて薄い空-サロンパス-ストーブ-静かな場所-将棋解説の雑談-待ち時間

嫌いなもの

クチャラー-湯船浸かりすぎてお湯が冷めて出るに出れなくなるとき-コンタクト液が目に染みるとき-プールのタイルの錆びてるとこ-愛という言葉で正当化される行為-静電気-ん〜モイヒ〜-「考えさせられた」という感想-赤の他人とスッと打ち解ける海外の人の動画のコメント欄で自国文化卑下して冷笑する流れ-歩く時の左右の振れ幅が大きくてゾンビみたい歩くの遅い人-ポリティカルコレクトネス等の世の大きな流れにただ便乗して誰かを叩き、自分の頭が良くて分別のある人間かのようにアピールする行為-ニュースのタイトルしか見ずに内容を語ってしまう人-大きな音-邦ドラに出てくるガチガチの教育ママ-仮想敵立ててずっとSNSで怒ってる人-達観的で悟っている浅薄な人-「〇〇ってそういうもんだよ」-出発前物がない

人間が抱く「悪意」は、善意や優しさや思いやりよりずっと、その人の本質に根付いていると思うから、そうしたものを見せ合うことはむしろ好きだ。友達の嫉妬だとか怒りだとか、そういう悪意を見るのはおもしろいし、嫌いなものに対してずばずばと怒りを表明するその姿は、かわいい犬にはしゃいでいるときよりずっと「その人らしい」とも思う。

最果タヒ『きみの言い訳は最高の芸術』

「嫌いなことより好きなことを語っていたい」と思っていたことがあるけど、好きなことが好きだから生じた嫌いなことだったりするし、その人のバックグラウンドが色濃く影響していたりして、嫌いなことについて語ることはその人の深い部分を知ることにつながることが多い。
今は嫌いなことを介して人と会話をするのもいいなと思う。

今日の猫