エンタメ小説が起承転結に沿って「物語」を提供してくれるのに対し、
制約が無く自由なのが純文学だと(大意)、作家の羽田圭介さんが言っていた。
「泣ける」「ドキドキハラハラ」など、読者の感情をある方向に持っていってくれることを約束してくれている文学がエンタメ小説。
読んだ後に、「は?どういうこと?」「読んでもたらされたこの感情はなんだ?」ってなったり、「オチは?」となったり、言い換えれば「起承転結という装置を使って感情を誘導する」という制約がなく、約束事を守らなくても良い自由な文学が純文学であるという。
「わけわからない」のは、今自分の感情が大雑把に分類されているからであり、そういった感情を本気で観察するのが純文学。
ここまではっきりと定義をすると、世の中の本が、純文学かそうじゃないかと仕分けることが逆に難しいことに気付く。
起承転結にのっとりながら、文単位での裏切り等のテクニックが秀でている小説や、
自由でありながら多くの人の感情をある方向に持っていく小説もある。
今日の猫
