本当に眠くて寝てしまいそうなときに小説を読んでいるときにだけできる体験がある。
昨日は26時ごろまで作業をして、そこから4時間ほど睡眠をとり、起きて昼頃までアルバイトをし、
昼ごはんを食べてからちょっと寝て夕方までリモートワークでアルバイトをし、
そこで久しぶりに目先のタスクから開放されたので、気楽な気持ちで散歩してうどんを食べて研究室に向かった。
今日は多和田葉子さんの『百年の散歩』が読みたいなと思っていたから、本を広げて読んでいたが、
何度も何度もこっくり途中で意識を失った。
寝てしまえばよかったのだが、今日は多和田葉子さんの『百年の散歩』が読みたいなと思っていたので、
消沈しては起き、を繰り返し少しずつ読み進めた。
「ふむふむ〜」とか思いながら文章に沿って情景が思い浮かんでいたのだが、もう一回同じ場所を読んでみると、全然思い描いた情景についての文章が書かれていない、という不思議なことが起こり、4行ほどの短い段落を何回も何回もなぞった。
読んだ小説に夢が混ざっていた。そしてこの百年の散歩も、夢を混ぜたような小説だった。
いたる表記は揺れていて、誤字や脱字が忍び込んでいる。
スポットライトをスポっとライト
途端、トタン
一語、苺、イチゴ
みたいな。
その言語に向き合いたての気持ちというか、「スポッと」ってどんなライト〜?みたいな新鮮な感覚を呼び起こすための仕掛けだろうか。
そういう表記の揺れや、母国語の認識を揺らすような表現が思考を跳躍させ、夢現な読書体験を産んだのかもしれない。
しかし途中でそのことに気付いて自分で再現しようとしてからは、その感覚は再現されなかった。
Berlinはフランス人がつくった町だ、と昨日の夕方「楽しー」の運転手に言われた。そのことが今日のわたしの聴覚世界に影響を与え続けている。Taxiをわたしは「楽しー」と呼んでいて、これは日本語でもドイツ語でも英語でもみんな「タクシー」という苺、イチゴ、一語、に縮んでしまっているモノリンガリズムを崩すために自分で勝手に造った単語である。
多和田葉子『百年の散歩』
楽しー、いいな
多和田葉子『百年の散歩』
(略)わたしはスープを食べた。飲んだ、というのが日本語なら正しいのだけれど、食べた瞬間、日本語が不在だったので、飲んだのではなく食べたのだった。
使用言語が日本語一つでもこういう体験があっただろうか。
それとも普段使いする言語が複数あると、ある体験の最中に不在になる言語、出てくる言語があるんだろうか。
ナイフで小さなジャガイモを真上から刺すのが「ichiわたしは」、二つに切れば「dichあなたを」、インゲン豆を切りながらナイフでお皿を引っ掻いて不快な音を出せば、「hassen嫌っている」という意味なのかもしれない。語尾変化なんかインゲン豆の曲線に任せておけばいい。きいきいきいきい、嫌いよ、あんたなんか。そういう会話をナイフとフォークが交わしている。
多和田葉子『百年の散歩』
今日の猫

靴だった