体験そのものは消えてゆき、言語化された形で伝わっていく、のか

小説は基本的には虚構の話だが、「しかし文学ではない現実のできごとも、私たちが現場に居合わせることは少なく、仮に自分が見聞きしたことであっても体験そのものはやがて消えてしまうので、常に言語化された形で伝わっていく。」(小平 麻衣子『小説は、わかってくればおもしろい:文学研究の基本15講』)

そう考えると、小説を読んで豊かな言語化の手段に触れることで、自分の体験もより豊かで新鮮なものになっていくとも思える。これが小説を読む実利的な理由の一つだとも言える。

しかし「仮に自分が見聞きしたことであっても体験そのものはやがて消えてしまうので、常に言語化された形で伝わっていく。」という部分には、8割共感し2割共感しきれない部分もある。
2割について、例えば、ある音楽やラジオを聴きながらある土地を散歩をし、後日その音楽を別の場所で耳にした際に、「あの土地でのあのときの感じ(空気感とか気温とか気分とか)」が思い返されることがあるからである。それは全く言葉になっていないが体に残っていた感覚だ。

カメラは、視覚情報を外部に保存する装置だが、
逆に視覚情報を内部に焼き付ける装置が出てきたりするんだろうか。
身体に強烈な刺激を与えるながら視覚情報を得ることで、後に同じ刺激を与えるとそのときの感覚が呼び起こされる、みたいな。

今日の猫