志賀直哉とメタフィクション

語呂が良い。

志賀直哉の「小僧の神様」という小説がある。
あらすじを端折りに端折り、三行くらいでまとめるとだいたい次のようになる。

・秤屋で働く寿司を食べたい十三、四くらいの小僧(仙吉)と、その小僧に御馳走してあげたいAという貴族院議員の話。

・ご馳走をする勇気が出なかったAは、秤屋で秤を買い、小僧を指名し家にまで運んでもらうことで、「運んでくれたお礼に」という理由をつけご馳走をすることにした。(その際、名前や住所を知られるのも変な気がして、書面にはでたらめな住所を書き、一緒に家まで向かった)

・ご馳走をした後、Aはなぜかとても淋しい気持ちになり、善事を行ったには違いないが、変に人知れず悪いことをしたような気分になった。小僧はというと、どうにもそのAが人間と思えず、仙人かお稲荷様のように思え、苦しい時、悲しい時は必ずそのAを思い、いつかまた思わぬ恵みを持って小僧の前に現れないかと考えるようになった。

そしてこのお話、最後の最後に「作者」が登場し、このお話はメタフィクション(虚構であることを自ら明かす作品)となる。
作者はここで筆を置く。小僧がAの正体を求め、Aがでたらめに書いた住所の元に訪ねると、人の住まいは無く、稲荷の祠があり、小僧は大層びっくりした。ということを書こうと思ったが、それでは小僧に少し残酷な気がしてここで筆を置くのだ。
という風なことが書いてある。

この「作者」は志賀直哉自身ではないのであろう。志賀直哉は、当初の意図が挫折した作者を描く作者←ココにおり、入れ子構造になっている。

「『作者』の意図」を末尾にあえて入れる作者の意図のことを考えると頭がグルグルしてくるが、綺麗なオチという運命の操り人形から小僧を解放し、作者の意図を迷子にさせることで、「小説は作者の意図の反映であり、それを正確に読み解くべき」という呪縛から読者を解放しているようにも思える。

今週の猫

アー写立ちじゃん。

タミル語の擬音語/暑い国の「冷たい心配り」

最近タミル語の擬音語に触れて元気が出た。
「すらすらと」を「サラサランヌ」
「ひそひそ話をする」を「クスクスッカ」
「ハキハキとした」を「スルスルッパーナ」
「ワクワクして」を「パラパラッパー」
というらしい。
パラパラッパー

タミル語が使われる南インドの気候は、日中の最高気温が30度に達しない日は年間で非常に少なく、「冷たい」という語は「心地よい」というニュアンスを持つという。私たちが「心温かい人」や「温かい配慮」というところを、タミル人は「冷たい人」、「冷たい心配り」と表現する。

日本には四季があり、夏も冬も同じくらいの期間あるが、温度が高いというベクトルには「熱い」の手前に「温かい」という「心地よいニュアンス」を持つ表現がある反面、温度が低いというベクトルには「冷たい」の手前に同じようなニュアンスの表現が無いように思える。でも「ひんやり」はちょっとだけ良いニュアンスが含まれているだろうか。「ぬるい」はどちらかというと「温かい」の手前のように感じる。

割と舌を巻いて発音するのか。文字が丸っこくて可愛い。

タミル語を勉強すること。
素敵なブログがあった。

丸みがあって流れるように書けるタミル文字。書いていて気持ち良いし、愛着がざぶざぶ湧いている今日この頃…

タミル語を勉強すること。

文字の形に愛しさや愛着を味わいながら文字を書く感覚は、小学生の書写の時間以来忘れていた。

参考文献:高橋孝信,世界のことば,1991

今週の猫


景色を脇役に、光に着目しながらする散歩

光を観察しよう。何色だろう? 主光源は何だろう? 他に光源はないか? 電球や太陽からの直接光か、それとも空や窓からの拡散光か? 影はあるか? それはくっきりした影だろうか? 霧やちり、霞など、光に影響を与える大気中の要因はないだろうか? その光を受けて美しいと感じるだろうか? もし美しいと感じるなら、それはなぜだろう?

『画づくりのための光の授業』リチャード・ヨット著

即物的なハウツー本かと思い手にとってみたら、思っていた以上に文学的であり、理論的でもあり、景色や映画の見方が広がる素敵な本だった。

最近動画編集にDaVinci Resolveを用いるようになり、カラーグレーディング等について改めて勉強したくなったので楽しく読んでいる。3DCGのレンダリングをするのもさらに楽しくなった。

日常的な状況では、ほとんどの光源は色を帯びているが、人間の脳はそれをうまく修正し、実際に見ている絶対的な色ではなく、納得しやすい相対的な色として知覚している。

手元のmac book proも、シルバーに思えてよく見れば暖色のデスクライトに照らされて彩度の低いオレンジ色をしている。さらによく見れば、そのデスクライトの光が弱まって届いている部分は蛍光灯の光によって青白色をしている。日陰も黒ではなく、濃い青みを帯びている。それは天空光が反射するからであり、日陰にも光があるのは、大気が光を散乱するからである。では大気のない月面では、日陰に立てば真っ暗闇のはずである。


景色を脇役に、光に着目しながらする散歩をしたくなった。


あまり関係ないが、以前からテクスチャ採集の散歩なるものをしている。
よく見れば、テクスチャ浮き出具合もライティングの方向に随分左右されていることに気付かされた。

これは猫のテクスチャ。

「写真」という訳語は、やはり明治以降ですかね。戦前に「光画」っていういい方がありましたけど、あのほうがいいとおもうんですけどね。

『写真<イメージの冒険7>』(河出書房新社/1978)谷川俊太郎さんの言葉。

「身体として共存している」という感覚を呼び起こすためのコミュニケーション

だれかがしゃべり、別のひとがそのことばを聴き、そしてことばを返すというふうに、「一度に一人だけがしゃべる」リニアなプロセスというのは、わたしたちにとっては自明のもののようにみえても、人間の会話にとってかならずしも絶対的なものではない。

『「聴く」ことの力 ー臨床哲学試論』 鷲田清一 著

アフリカ南部のカラハリの狩猟採集民族であるグウィ族では、会話はしばしばことばのやりとりにならないという。グウィ族の調査を長年行っている人類学者の菅原和孝さんは、「むしろ相手の発話に同時にじぶんの発話を重ねるというようなコミュニケーションの形態というのがあるのではないか」と問いかける。

「歌」のように進行する会話。
「意味」や「物語」を交換するのではなく、「身体として共存している」という感覚を呼び起こすためのコミュニケーション。

そういったコミュニケーションを設計したとして、歌や音楽との境目をどこに置くか。

スカイプ等の音声電話をつなげたまま作業をする、サギョイプなるものがある。
最近ソフトが高性能になり、発話をしていないタイミングを自動的に検出し、ノイズをカットしほぼ無音に加工してくれる。
個人的には、息遣いやスピーカーの向こうから聞こえるちょっとした環境音が聞こえることがサギョイプのミソであったように思えるため、ありがたくも少し残念に思ったりする。

気配を感じたいのだ。
そこで現在、
・発話やこちらの音がアンビエント音に変換され相手に届けられる「サギョイプ環境」
・さらにその「サギョイプ」によって生成される、世界に一つだけの、参加者で作り上げた「アンビエント音楽」を保存して音源にできるサービス(?)を企画している。

関係あるようにもないようにも思えるが、純粋音声詩というものがあるらしい。

今日の猫(といってあげている写真は以前撮った「今日あげる」猫の写真である。最近はほぼ家から外に出ていない)

口笛言語/皮膚感覚を伴ったTwitter

“言語とは、陸軍と海軍を持つ方言のことである” 

ユダヤ人言語学者Max Weinreichのこの発言は、自分たちが話す言葉がはたして「方言」であるか、それとも独立した「言語」であるかについての認識には、その言葉を使う共同体が独立国家を持つか否かといった政治的・軍事的要因に左右される面があることを示している。

Ethnologue第18版(2015)(キリスト教系の少数言語の研究団体国際SILの公開しているウェブサイトおよび出版物)によれば、世界には7102の言語があるという。
しかし、同一言語の中の方言を区別する明確な基準が無いことによれば、「世界にいくつの言語が存在するか」という質問への明確な答えも存在せず、言語は驚くほど多様であるといえる。

口笛言語のシルボ語というものがある。叫び声の10倍遠くに届き、谷の向こうの人に何気ないツイートをしたり、ご飯に誘ったりすることができるという。普通の会話はもちろん、政治についてなど複雑な会話もできる。皮膚感覚を伴ったTwitterのようだ。
音声言語においては、声や訛り、喋り方の癖などから個人を特定することは難しくないが、このシルボ語ではどうなのだろう。

今日の猫

漂流する文字/書き文字の残留思念

「エクリチュール」は、文字、あるいは書き言葉を意味するフランス語である。

『広辞苑第六版』には以下のようにある。
①書くこと②書き方。書体。文体。③書かれたもの。文字。文書。


ジャック・デリダは著書『署名、出来事、コンテクスト』の中で、エクリチュールを「漂流物」や「痕跡」、あるいは「幽霊」や「郵便」などの隠喩によって説明している。

文字を「漂流物」と表現するのは面白い。
例えば今村の「今」は僕の氏名の一部だが、時の表現や、「その上に」という副詞的用途であったり、地名など、様々な状況で使われる。
このように複数の文脈を横断すること、あるコンテクストから解離し漂い、違う文脈に収まったりすることは、簡単に言えば「一つの漢字でいろいろな単語が作れるね。」ということなのだが、
この現象を「漂流」と再解釈してみると景色が広がる。

書き文字ではまた様子が違ってくるように思う。
シンプルな情報としての文字と違い、そこに筆跡(書き癖や筆圧)というような記名性がある。
「今ひまー?」の今と、何度も頭を下げながら「今一度、考え直していただけませんか」の今では、字形も変わってくるのではないか。そこには残留思念のようなものがまとわりつき、文字単位で切り取ったとて、文脈を横断して違う文脈におさまることは大変難しいのではと思う。

至極当たり前のことを言っているとは思うが、このような粒度で言い換えや例示、再解釈を行う行為が、自分にとってはアイデアの種になる。


今日の猫