「カリスマ性の皆無さ」と「自説を無限に修正する可能性」

「かもしれない」が口癖で、つい「〜なんじゃないかな…」が語尾についてしまう。
断定ができない。

SNS等でキャッチーな肩書きを掲げ、広義の後輩に向けて「これはこうだ」と力強く断定し発信している人を見ると、その自信の端くれでも欲しいなと思う。

この自信の無さは長所とも言い換えられそうで、でも自分としては、もっと及び腰にならずに気にせず自分の意見を言ってしまいたいと思っていたし、そういう自分に「カリスマ性の皆無さ」を感じていた。

「自分の主張は間違っている可能性もある。」という前提に立つことのできる知性は、自説を無限に修正する可能性に開かれている。それは「今ここ」において付け入る隙なく「正しい」議論を展開する人よりも、将来的には高い知的達成にたどりつく可能性が高い。

内田樹『話を複雑にすることの効用』

しかしこの文章で、自分で感じていた「カリスマ性の皆無さ」を「自説を無限に修正する可能性」と言い換えてもらったような気がした。

経験のある方はご存知だろうが、「私の主張は間違っている可能性がある。」と思っている人間たちが集まると、その議論はたいへん迅速に進行し、かつ内容は濃密で深厚なるものとなる。

内田樹『話を複雑にすることの効用』

たしかに経験がある。
自分の立論の整合性や妥当性と他人の立論の破綻を過大評価し、自分の立論or他人の立論という対立軸から離れられない人とより、「私の主張もあなたの主張も(広い意味で)間違っている可能性がある」という前提のもと、Aなのか、Bなのか、という二項対立ではなく、昇華した中間としてのCを考えられる人との方が、スムーズにことを深堀りしていける。
そういった人相手だと、AとBの意見の遠さを楽しみながら対話ができる。
私もそういう人でありたいと思う。

今日の猫