月別: 2022年3月

子供向け番組っていいね

ドラえもんのび太の恐竜2006を観た。アニメって良いものだなと改めて思う。
これを見て子供たちは「お別れ」や「冒険」というものをなんとなく知っていくんだろうなとか、未知を怖がらず楽しんでみる強さに触れるんだろうなと思った。のび太やドラえもんが愛おしくてたくさん泣いた。ピー助かわいい。

子供向けの番組が好きだ。ドラえもんとか仮面ライダーとか。
情報量の多い複雑なこの世界の中で、私たちは全ての情報を受け取って処理することはできないから、無意識のうちに自分の知っていることや、見たことのあることだけを取り出して見ているのだと思う。一方でこうした子供向けの番組は非常にシンプルに構成されていたり、情報量や複雑性があえて削ぎ落とされることがある。現実の世界の中で見過ごしてしまっているものを、こういった子供向けコンテンツは気付かせてくれるような気がする。

子どもの本というのは、子ども時代の懐かしい本のことだけでなく、むしろ大人たちにとっては、大人になるとともに自分たちがいつか失った疑いや希望といったものがそこに見いだされるような、あるいは確かめられるような、つねにそういう入り口をもつ本として捉えかえすほうがずっといいと思うのです。

長田弘『読書からはじまる』

それにしてもAmazonレビューの酷評には辟易してしまうが、でもそれだけ原作が大好きで、大好き故に観ていて悲しくなってしまった部分があったのだろう。僕も好きだったアニメのシーズン2で脚本や制作会社が変わり、同じような悲しさと寂しさを感じたことがある。

今日の猫

怒りを感じることについて

怒りには「感情」と「道具」二つの側面があるように思う。
後者に見られる、怒声をあげるなど怒りを表すことによりコミュニケーションの行方をコントロールする行為は、
これまで自分の行動の選択肢に入っていなかったように思うし、これからも自然にこのままで良いと思っている。
特に暴力などはその思想が未熟であることを単に示すだけで、論外だと考えている。

ただ、怒りを感じてモヤモヤする、イライラする、カチンとくる、といったことに関して。
こういった怒りの感情は自分の活力にもなり得るが、そうではなく他人に不機嫌に当たってしまったり、
ただモヤモヤイライラとして時間を過ごしてしまうのであれば、その怒りは感じたくない、怒りたくないと思う。でも怒りを感じてしまうことはある。どうしたら良いだろう。

怒りを感じたとき、これまでは「なぜその対象に怒りを感じたか」「ではどうするか」と対象に怒りを抱く正当性を確認し理屈を結びつけながら考えようとしていた。しかしよくよく自分の感情を観察してみると、元々空腹や、自分の思い通りに自分の行動をコントロールできていなかったことから来る苛立ちからある程度不機嫌であり、そこに「手っ取り早く怒ることのできる対象」が降ってきたことによって、内にある不機嫌の矛先をその対象に向けてしまっているだけであることが多々あるように思えた。つまり、その対象に怒りを抱く正当性は無く、怒りたいから怒っているだけ、ということである。
怒りは自分の心が生み出したものだから大事にしなきゃと、考えることもあったが、案外蔑ろにして良い二次感情なのかもしれない。

今日の猫