二つの「わかる」

小説家のギュスターヴ・フローベールは、
「才能とは、ながい期間にわたっての忍耐にほかならない。」と始め、
「大事なことは、表現したいと思うものは何でも、じっくりと、十分な注意をはらって見つめ、まだだれからも見られず、言われもしなかった一面を、そこから見つけだすことである。」と続ける。

どんなに些細なもののなかにも、未知の部分が少しはあるものだ。それを見つけ出そうではないか。燃えている炎や、野原のなかの一本の木を描くにしても、その炎や木が、われわれの目には、もはや他のいかなる炎、いかなる木とも似ても似つかないものに見えてくるまで、じっとその前に立っていようではないか。

モーパッサン『ピエールとジャン 序文』

目の前の人物が、同じ人間の他のいかなる人物とも違って見えるようになるまで、
また目の前の事物が、同じ種類の他のいかなる事物とも区別がつくようになるまで、
その前に立って観察しようではないか。才能とは、そこで長い期間忍耐できるかどうかである、と、モーパッサンの師匠フローベールは述べた。



「分かる」は「分ける」であるという風に、ある程度記号化して分類することが「分かること」であるという理解の方向性があると思う。
しかしこのフローベールの言う、記号化された物事を、同じ記号を持つもの同士にも差異が見つかるほど観察せよ、という考え方も一つの理解の方向性であると思う。

この二つの「分かる」を両輪に携え行き来しながら物事と向き合っていくことは大切なことに思えた。


フローベールの言うことを少しでも理解しようと、一つ物を観察してみることにした。
目の前にステンレスのペン入れがある。
同じ工場で生産された同じペン入れは、全国あちこちにあるだろう。
それらと似ても似つかなくなるまで見てみる、とのことだが、シンプルな形のこのペン入れにそんな特徴は中々見つからない。
一度触れてみると、冷房に当たっていることもありヒヤッとしていることに気付いた。持ち上げて底を見てみると、消毒液で机を拭いた液体の跡がついていた。
そのペン入れのことが少し分かった気がする。

今日の猫