小説が果たす役割の一つとして、公式な記録や歴史書からはこぼれおちてしまう私的な記憶を刻み込む記録としての役割がある。
自分だけの記憶を言語化しようとしてありふれた言い回しや表現に頼ってしまう時、しばしば「自分だけの」という固有性が失われてしまう。
今の自分の中では(言葉にならなくても)オリジナルで新鮮なまま保存されていると思っていても、他者や未来の自分に伝える際に、そういった喪失が起こってしまうのだろうと思う。
小説家が初めて世界と向き合うように、感じ、触れ、見つめ、澄ましてつかみ出した言葉に触れることは、
そういった喪失を防ぐことになるのだと思う。
そして、そのような「言葉に触れること」とは、ある本「についての」知識を得ることではなく、「じっさいに読む」ことであるのはおそらく言わずもがなであり、今の情報の流れが速い世の中で私はどうしても知った気になってしまうことが多いなと自省する。
古典とは、その本についてあまりいろいろ人から聞いたので、すっかり知っているつもりになっていながら、いざ自分で読んでみると、これこそは、あたらしい、予想を上回る、かつてだれも書いたことのない作品と思える、そんな書物のことだ。
須賀敦子『塩一トンの読書』 『本なんて!作家と本をめぐる52話』より
ある本「についての」知識を、いつのまにか「じっさいに読んだ」経験とすりかえて、私たちは、その本を読むことよりも、「それについての知識」をてっとり早く入手することで、お茶を濁しすぎているのではないか。
須賀敦子『塩一トンの読書』 『本なんて!作家と本をめぐる52話』より
今日の猫

