何度もゆっくり読んでみる

今の家に住むようになって、駅前の商店街を軽く1000回は行き来していると思う。
1000回以上通っていても、未だに新しく気付くことがある。
この家にはこんな面白い位置に室外機がついていたっけ、とか
このお店のロゴ、こんなに堂々とした書体だったっけ、とか。

自分より感じる網目がずっと細かく、一度通るだけでもたくさんのことを発見して吸収している人がいるんだろうなと思う。

川上弘美の『神様』を一度読んで、同じことを感じた。
魚を捕まえてくれたくま。「わたし」が昼寝している間に魚が三匹に増えていて、愛おしくなった。
読んだ後、「わたし」と同じように「悪くない一日だった。」と思った。
そういう感想で十分だと思ったし、満足もするが、
「もっとずっと感じる網目が細かく、一度通るだけでもたくさんのことを発見して吸収している人がいるんだろうな」と、全力で走りたいのに足に十分に力が行き届いていないような歯痒さを感じた。

ゆっくり二度目を読んで、うーんと言いながら三度目を読んでいくと、読むごとに違う発見があった。
「くま」は「熊」ではなく、「クマ」でもない。
近隣にくまが一匹(頭ではなく匹で数えていて、小さめのクマなのかなと思う)もいないことから、名を名乗る必要がないということだった。例えばアメリカ人でスケボーが趣味のマイケルという友人がいたとして、彼のことを「アメリカ人」と呼ぶのとくまを「熊」と呼ぶのは近いと思う。「スケボーの彼」と呼ぶのと「クマ」が近く、「マイケルくん」と呼ぶのと「くま」が近いと思う。
そういう距離感で「わたし」は「くま」のことを認識していたのかなと思う。

「呼びかけの言葉としては、貴方、が好きですが、ええ、漢字の貴方です、口に出すときに、ひらがなではなく漢字を思い浮かべてくださればいいんですが、まあ、どうぞご自由に何とでもお呼びください。」
とくまは言うが、くまがわたしに語りかける台詞においては「あなた」が使われている。
一人称のこの小説においては、「くま」に「わたし」がどのように見えているのかはわからない。
くまがひらがなではなく漢字の方の貴方を思い浮かべながら呼んでくれているかは見えない領域であり、
だからこの「あなた」は、語りの空白なんだろうなと思う。
この語りの空白を通して、くまがわたしをどう見ていたのかを、読者が想像を広げていけるのだろうと思った。

「速く読めなくて良い。ゆっくりで大丈夫」と自分を許し、何度もゆっくり読んでみると、
小説の奥へ奥へと入っていく感じがする。
遅読という考え方や、平野啓一郎さんの提唱するスロー・リーディングという考え方、『本は読めないものだから心配するな』という本と出会ってから、本に触れるのが楽しい。

今日の猫

雨だー