ゆとり

力んで話している最中、ふと誰かのユーモアに笑い、肩の力が抜けた後に溢れた呟きで自分の本心に気付いたり、点と点が繋がることがある。また、ぼやきのようなちょっとした純粋な問いが思考をほぐしてくれることがある。
自分が尊敬している人に共通点を見出すとすれば、会話にそういったゆとりを持っている人が多いように思う。
ある方向に結論を持っていく力の強いことと同じくらいかそれ以上、その場にいる人々の思考や、感情をほぐすような、問いやユーモアといったようなゆとりを持っていることを尊いと感じる。

 ゆとりは私たちの住む地球に対して、宇宙の真空にも似ていようか、それはまた私たちの生きる一生のつかの間に対して、永遠とも言えようか。自分を、自分の心を突き放し、相対化して見ることのできる視点、心の外のもうひとつの心。ユーモアと呼ばれる心の動きもまたそこに根を下ろしているように思われる。

 もしそれこそがほんとうのゆとりであるとすれば、そのゆとりは金や物の多少に関係がない、信心、不信心にも関係がない、思想のちがいにも、教育の高い低いにも関係がない。私たちが知らず知らずのうちに、ゆとりの有る無しで人を判断するとしたら、それは他の基準による判断よりもずっと深いものであり得る。その判断もまたゆとりあるものであってほしいけれども。

谷川俊太郎『ひとり暮らし』


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