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映画『聲の形』が嫌いな後輩と2時間くらい話をしたときの話。 /「想像的抵抗」について。

映画『聲の形』が嫌いな後輩と2時間くらい話をした。
「なんか嫌い」というよりかは、「しっかり嫌い」「嫌な気分になった」 そうである。

対して僕は一番好きな映画と言っても過言ではないかもしれない。
この映画をきっかけに知った原作者の大今良時さんの現在連載中の漫画「不滅のあなたへ」は、好きな漫画は?と聞かれて真っ先に出てくる漫画だ。

そのときの会話の内容を思い出しながら、文学の哲学のトピックである「想像的抵抗」について少し考えてみようと思う。

もしこの記事を読んでいる人がいるなら、 後輩も作品の内容はうろ覚えでである上で思い出しながら言語化していたこと、
そしてこの会話の内容も僕の数日前の記憶を引っ張り出して書いているものなのでいろいろと不確実であることを前提としてほしい。
またこの会話は、楽しくお互いの意見を知ることを目的としていたため、どちらが正しいだとかそういう結論めいたものが出たわけでもない。(あとネタバレがあるのでご注意いただきたい。)

ざっくりと後輩の意見をまとめると、

1.いじめの描写が出てくると現実感が無くなる
2.「そうはならんやろ」と思う場面が複数ある
3.私だったらこういう展開にはしないとシナリオライター目線で考えてしまう
4.罪を犯したものが前を向いて歩みだすことを良しとするのが嫌(大意)
5.顔の上に×の描写が嫌
6.髪の長い女の子(植野)が嫌いだったのを覚えている

らしい。

1.「いじめの描写が出てくると現実感が無くなる」について。

いじめの描写が出てくると気分が嫌になるというところまでは共感できたが、現実感が無くなるというのがピンと来なかった。
いじめの実際と違うんじゃないか、と思ったとか?と聞いてみると、「そうではなく、(気付いてないだけかもしれないが)これまで身の回りにいじめというものが無かった」「私だったらしないと考えてしまう」という言葉が出てきた。
聲の形に限らず、いろいろな作品でいじめの描写が出てくるとそう感じるらしい。
実際のいじめや子供や思春期の精神医学的なことを知っていて、それとの乖離を感じて現実感を感じなくなる、ということではないようだ。
これってなんだろうと調べてみると、これかな?というのがあった。「想像的抵抗」。

想像的抵抗(imaginative resistence)とは、他の物語やフィクションを鑑賞している際には、それなりにうまく想像的活動できるひとが、特定の物語やフィクションの場面において促された想像的活動(主に道徳的価値や美的価値などの価値評価を含んだ想像)をうまく行えないときに起こる。たとえば「嬰児殺しは善だ」ということが成り立ってしまっている物語の中の状況があったとして「嬰児殺しは善だ」と発言しているキャラクタがいること、どうやらこの物語の世界ではそういうルールが成立していることは想像できるが「嬰児殺しは善だ」という価値評価を含んだ想像を活き活きと行うことが難しい、というとき、想像的抵抗が起こっている。

文学の哲学にはどのようなトピックがあるのか

つまり、「自分にとって非倫理的な命題を想像するときに、あまり想像力が喚起されない」ということかと思う。

我々は「母親が嬰児を殺す」という内容を論理的には納得するが、なかなかリアルに想像できない。そのような内容をリアルに想像させるには、なんらかの形でそこに別の力を与えなければならない。物語作品が持つフィクション性はその想像力を喚起する力として最たるものである。

フィクションが現実の事件へもたらす影響について。

・自分にとって非倫理的である
・その上で想像力が喚起されるほど没入できる物語でない

という要素が組み合わさったときにこの想像的抵抗が起きやすいと仮定できるかもしれない。 こう考えると共感できる。後輩にとってこの作品のいじめの描写は非倫理的であって、想像力が喚起されるほど没入できる作品構成になっていなかったということなのかな。

この作品のいじめの描写は僕にはすごくリアルに思えた。 いじめを見たことがあるとか、いじめに意識的になったことがあるかどうかでマウントをとるようなことではないし、そうする気はないが、リアルに思えて没入できた理由がある。

小学生のころ中国の現地校に通っていたが、開校以来初めての外国人だった。
えこ贔屓してくる先生がいた。みんなが怒られるような状況で、「君、日本人だっけ?」と確認され、「君はいいよ」と一人だけ許された。それが原因で「なんであいつだけ」と不満が溜まったクラスメイトの不満は僕にも向いた。すごく素直で自然な反応である。
硝子のために朝の時間を使って手話の勉強をしましょうとクラス全員に強制させようとした先生は、もしかしたら同じようなことをしていたのかもしれない。素直に不満を感じる子供は当然いただろうし、それによって肩身が狭くなるのは硝子である。なんかすごく感情移入してしまった。

日本に帰ってきて、バングラデシュ出身の子とベナン出身の子が仲良くしてくれた。毎日のように遊んでいたが、「あの外国人3人組をいじめようぜ」と身も蓋もないことを口にしながら楽しく遊んでいるところを常に邪魔してくる人たちがいた。 心の底でどんなことが起きていたのかは今は分からないが、異質なものが気持ち悪いという自然な反応だったのかもしれない。肌が黒いとか、癖っ毛で分厚い眼鏡をかけている(僕)とか。
補聴器を手に取って「きったねえ!」と外に投げる石田は、いじめようという邪悪な大きな心があってやったのではなく、気持ち悪いという素直な気持ちからそのようにしたように思える。 大人目線で倫理的であるとは全く思えないが、子供がそうしてしまうこと、子供にとっては非倫理的ではないこと、そういうことが起きることはすごく理解できる。

僕にとっていじめの描写で想像的抵抗が起きない理由は、 僕にとって非倫理的でも子供にとってはそんなの関係なく素直にやっちゃうんだろうな、と思うし、作品の中に共感して没入してしまう要素がいくつかあったからなのかなと思う。

2.「そうはならんやろ」と思う場面が複数あるについて。

これは、石田が補聴器を外に投げるシーンや、石田が硝子を引っ張り上げたときに石田が代わりに落ちるところとか、そうはならんやろと思ってしまうシーンがあったとのこと。

僕もそうはならんやろ、と思ってしまうことはたまにあるが、 当事者だから起こしちゃう不条理な出来事もあるし、偶然だってたくさんあるし…と思うのと、最近は「なぜそれが起きたのか」を考える。

例えばハイスコアガールという作品(他いろんな作品でも)で、こんな主人公のどこにヒロインがこんなに惹かれるのか分からないという意見があったりするが、そんなどこが良いのか分からないような人に自分だけが気付いているような良さがあるとしたときに、物語はちょっと違って見えてくる。

ボーっと見てるから「あぁ、起きたんだ」と受け止められるだけかも。

作品の見方に違いがあるなと感じた。

3.「私だったらこういう展開にはしないとシナリオライター目線で考えてしまう」について。

私だったら、硝子をそのまま死なせるか、石田を生き返らせない、ということだった。 石田が生き返らないことで、硝子が自殺をしようとした自分を顧みる、という話だったような気がする。

これについて僕は、作者は、「犯してしまったどうしようもない罪を抱えてそれと向き合い前に歩みながら普通の恋愛をする高校生」を描きたかったんだと思うので、作者のその描きたいテーマに沿った展開だと思うという点で違和感は無かった。

4.「罪を犯したものが前を向いて歩みだすことを良しとするのが嫌(大意)」について

この作品の最後がある意味のハッピーエンドであることで、犯した大きな罪を容認して良いという感じがして嫌だったとのこと。

なるほど。 僕はこれまでいくつもいくつも罪を犯して人を傷つけているので、この作品がある種救いになった部分がある。許されちゃダメだけど、少し受け止めてもらえた気がした。 人は多分自分が犯した罪については鈍感で、無自覚に人を傷つけていることが往々にしてあると思っているので、このエンディングを否定することは自分がある種許されることを否定するようで、その勇気が無かったとも言える。

その後輩は罪に無自覚な鈍感な人では無いと思うから、たぶん自分に厳しくて自分で自分を苦しめてしまうような人なんじゃないかなと思う。

5番と6番については言葉通りという感じだった。

作画や音楽、演出の熱量すごいよねという話は同意見だった。やっぱ京アニすごい。

好きなレビューを引用する。

小学6年生と中学生、高校生の3つの時を繋ぐ、先天的な聴覚障害の女子、西宮硝子と自己承認に苦しむ男の子、石田将也を中心とした少年少女達の心の葛藤の物語。
誰もが自分の不完全さを薄々感じ、だからこそ誰もが安全な居場所の確保に焦り、誰もがそれを他人に知られたくないから不本意な演技を繰り返す。
自分を守る為、家族の負担を軽くする為、友逹を失いたくない為、そして友達を救う為。人の中で生きることの息苦しさを乗り越えるには、自分自身の強さも弱さも全て受け入れ、その未熟で不完全な姿を素直に認める事、その先にしか受容出来ない人の不完全さを認める事の大切さを痛切に訴えるシナリオ。
この誰もが通過する思春期の儀式を、決まった型に嵌め込まず、不揃いの蒼い若者達の心の叫びや出会いに委ねたストーリーこそ、本作の潔さであり、賭けでもあった。その絵画的描写はとても繊細で複雑、頭で理解するのでなく、胸のザワつきと肌で感じさせる演出がとても鮮烈で、観客すらも一緒に試されている錯覚に陥っていた。
その相手は決して若者逹だけでなく、寛容精神や社会性をとっくの昔に会得して卒業したつもりだった大人達の慢心をも巻き込むに十分な尖り方で、つい私も惹き込まれたのだ。
この作品の心の叫びに応えた国内観客や40ヵ国弱の配給海外諸国を併せた総額約60億円の興行成果に、日本アニメの持つ万国共通の普遍性と社会影響力を改めて思い知った。
最後に本作の特色に、大人の男性や父親役の不在がある。子供の成長には威厳や論理、経済力とは別次元の、不完全さを自力で乗り越える為の余裕を与える母性の後ろ支えが一番大事なのかも知れないと感じた。
今後益々、女性の社会進出が普通になるなか、子供達が両親だけに頼らず、仲間と共に人生を学び育っていく社会変化の必然性を予見した、とても大切な作品に思えてならないのだ。個性を認め個性と歩む、日本人にとって実は苦手かも知れない新たな世界を迎える為に、多くの方々に観て感じて欲しいと思える、稀なる意欲作です。

 不完全な自分を認める事が人を受容する土壌

何より類稀な点は、音楽の牛尾憲輔氏の拘りである。 ピアノを解体し、鍵盤やハンマーが響くその物理的な音(ノイズ)を追求し、ヘッドフォンをつけなくても、音楽の中にはっきりと軋み音が聴こえてくるのだ。その音は、今まさに視聴している者の目の前にて起きているような臨場感を与える。
これら全てが、一つとなって、クライマックスまで足掻いて足掻いて足掻いき終えたあなた(主人公)は、今まで見たことのない景色を目の当たりにするだろう。
そのとき初めて、絶望したり、後悔したり、後ろめたい気持ちで悩み続けてきたあなたは、こんな形で、報われるのでしょう。
私はそれを、願っています。

 心にずっと残り続ける作品


ふと、King Gnuの白日ってめっちゃ聲の形じゃない?と思った。

今週の猫

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