光明寺僧侶の松本紹圭さんのラジオが好きでよく聞いているのだが、
浄土真宗本願寺派僧侶の石田明里さんとの赦しについてのお話が良かった。
そのときの内容を大意で書き出してみる。
あの人を怒らせてしまった。
憎しみを向けられている方(許す側)は、自分から何もできない。
謝ることはできるが、どこまでいっても許す主体は許す側にある。
しかし、実は許す側の人も、どうにもできない。
許せないから許せないのであって、「許してあげたら」と言われても、どうしてもそのことを思い出してしまう。
繰り返し思い出すから自分でまた自分を傷つける。自分でダメージを増幅させてる。
そこから抜け出すのは最終的には神の仕事なのではないか。
許す側も許される側も赦しがやってきて、ようやく終わる。
ではいつ「赦しはやってくる」のだろうか。
石田明里さんは、血を流して磔になっているキリストのビジュアル、
こんな残忍なことに対しても全てを赦すその姿を見て日々過ごしている(カトリックの人たちに関して)というのは、
赦しにつながっている部分があると考えていると仰っていた。
許すために理屈を辿って、あれこれ考えていても赦しはやって来ず、
どこかの景色を見に行ったり、映画やアニメを見たり、本を読んだりコンサートに行ったり、
絵を見たり、おいしい食べ物を食べたり、その食べ物を作った人の話を聞いたり、動物を見たり、
そうした中でふと、赦しはやってくるのかもしれないと思った。
今週の猫
