絵を見るのが最近好き

少し前まで、「音楽を聴いて涙が出ることはあるけど、一枚の絵を見て感動することは無いな」と思っていたけれど、最近絵に心が救われることが多い。

一枚単位でというより、筆のワンタッチが生む模様だとか、テクスチャ、線の疎密に癒やされる。
筆のタッチが表すのは、最終的にはキャンバスに一人で向き合う作者の孤独の時間の蓄積であり、その静かな時間の中でどれだけ対象を愛した(観察した)かの証明のように思う。
これまで「のっぺりした一枚の画像」のように感じていた絵が、最近はそうした時間の再生機のように感じる。

たとえばポール・シニャックの《コンカルノー港》という絵における、船の側面の金属の部分かどこかが、日の光をキラッと反射したその一瞬を頭に残しながら筆を置いていった時間、灯台の側面の素材感とそこに落ちる光の色を見つめた時間。

本当に勝手な所感だが、私は私の好きな絵画から「私の表現すごいだろ!」「私を見て!」という顕示欲より「絵の向こうにある景色や人物からの強い影響」「そこに静かにしかし強かに目を向ける姿勢」を感じる。その静かさと強さが好きだ。

それとは別に、模様のメッセージ性の無さ、その静かさも好きだ。模様によって与えられる解釈の踊り場で好きに踊るのが楽しい。

藤島武二《浪(大洗)》
右下の、筆が跳ねてる部分がかわいい。



以前住んでいたところの周辺にはめちゃくちゃ猫がいたが、最近新しく住み始めたところでは今の所一度も猫と遭遇していない。
なので、これは(以前出会って)今日(振り返っていいなあと思った)の猫である。