お寺にお邪魔して

Temple Morning Radioというポッドキャストを好んで聴いている。
松本紹圭さんというお坊さんが週ごとに様々なお坊さんをゲストに迎え、様々なことについてゆるっとした雰囲気の中で話がされるラジオである。(以前も一度同ラジオについて書いた。赦しがやってくるとき

そのラジオに登場していたお坊さんが住職を務めるお寺が千葉にあり、去年からコロナが落ち着いたタイミングで何回か写経会とその後のお茶会にお邪魔している。

今月の24日に久しぶりに伺って、写経と読経をさせていただき、雑談をした。
7人くらい参加していたこともあれば、今回は僕と友人ともう一人、3人の参加者だった。

2時間くらいのその会を終えた後、真っ暗で寒い(そこは周りより標高が高くて一層寒いらしい)駅までの20分くらいの夜道を友人と帰りながら、「今来れて本当によかったね」と住職さんたちと交わした会話や、解説されたお経の内容について話していた。
印象に残っている話を一つ書き留めておこうと思う。

雑談をしている中で、僕らの進路の話になった。就職先の話。
もう一人の参加者の方が、「ほとんどの悩みは人だもんね。良い人がいるといいよね。悪い人がいると本当につらい」と話された。
お坊さんは一度頷いた後、でも人はどこまでも自分の欲望や立場からしか物事を見ることはできなくて、その欲望や立場から都合が悪い人を「悪い人」と呼んだり、欲望や立場によって自分が、思っていない方向に変わってしまうこともある。そういう欲望とかから一度距離をとって、自分を客観的に見るっていうのが、大雑把にいうと仏教がやろうとしていることだと思います、と言っていた。
写経も読経も、一度自分から離れるためのものであり、自分にとってはそれが読書だったりするよと続けた。そうして一度「置いておく」ことができると良いよ、と、そのための没頭できることとかがあると良いよねと「おじさんの話みたいになっちゃったね(笑)」と言いながら伝えてくれた。
(大いに記憶違いがあると思うので、住職さんの名前は伏せておく。)

魚川裕司さんは著書『だから仏教は面白い!』の中で、ゴータマ・ブッダの行ったことを簡単にまとめれば、こういうことです。と述べる。

私たちは欲望の対象を喜び楽しんで、それをひたすら追い続けるという自然の傾向性をもっている。放っておいたら私たちはそちらのほうへと流れていくのだが、その流れに乗ることなく、現象をありのままに観察しなさい。そうすれば現象の無常・苦・無我を悟ることができ、それらを厭離(厭い離れる)し、離貪(貪りから離れる)して解脱に至ります。

魚川裕司『だから仏教は面白い!』

欲望の流れに乗らず、現象をありのままに観察すること。別に悟りを開くことを目指していない僕は、そういう状態に常に身を置く必要があるわけではなく、一時そうして現象を客観視することができるだけで楽になるんだろうなと感じる。
精神科医の名越康文さんも、何かに没頭して悩みを一旦おいておくことができれば、戻ってきたときに悩みに対する苦しみはちょっと薄くなってるものですと言っていたような気がする。そういえば名越さん仏教詳しかったなあ。

普通に「心」という場合、やはり喜怒哀楽という感情を指すことが多い。これらを私は一時感情と呼ぶが、じつは人間にはもっと複雑な感情がある。(中略)たとえば憎しみ、たとえば怨み。ある意味では佳い感情の蓄積が愛情を生み出すのかもしれない。これらは二次感情と呼ぶのが相応しいだろう。(中略)それらを「心」なんだから仕方ないじゃないか、と認めてしまうのではなく、しょせん「心」が捏造したに過ぎないじゃないか、とバカにする。ことに二次感情をバカにするのが禅の基本的立場なのである。

玄侑宗久『禅的生活』

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