カテゴリー: 雑記

文化間の感覚の違いを知る装置

噴水ってあんまり見かけない。
噴水ショーを見たことがあるけど、
花火や川の流れを見て覚える感慨や、
新体操やシンクロにみる緊張感とそれによる感動など、
どれにも遠く及ばない感じがあって、ただ「へ〜」という感じだった。

日本人にとって水は自然に流れる姿が美しいのであり、圧縮したりねじまげたり粘土のように造形する対象ではなかったのであろう。

山崎正和『水の東西』

なるほどこれは日本人だからそう感じているのかなとも思った。

だとしたら、噴水は文化間の美しさの感覚の違いを知る装置だな。

金沢・兼六園にある噴水は、動力を使うことなく池の水面との高低差を利用した自然の水圧で吹き上がっているそう。見てみたい。

行雲流水(こううんりゅうすい)という仏教的なことばがある。
自然のままに身を任せて行動・生活することのたとえだそうだ。

この思想について山崎さんは、「外界に対する受動的な態度というよりは、積極的にかたちなきものを恐れない心の表れではなかっただろうか」と言っている。
良い心だな〜。

今日の猫

映画『聲の形』が嫌いな後輩と2時間くらい話をしたときの話。 /「想像的抵抗」について。

映画『聲の形』が嫌いな後輩と2時間くらい話をした。
「なんか嫌い」というよりかは、「しっかり嫌い」「嫌な気分になった」 そうである。

対して僕は一番好きな映画と言っても過言ではないかもしれない。
この映画をきっかけに知った原作者の大今良時さんの現在連載中の漫画「不滅のあなたへ」は、好きな漫画は?と聞かれて真っ先に出てくる漫画だ。

そのときの会話の内容を思い出しながら、文学の哲学のトピックである「想像的抵抗」について少し考えてみようと思う。

もしこの記事を読んでいる人がいるなら、 後輩も作品の内容はうろ覚えでである上で思い出しながら言語化していたこと、
そしてこの会話の内容も僕の数日前の記憶を引っ張り出して書いているものなのでいろいろと不確実であることを前提としてほしい。
またこの会話は、楽しくお互いの意見を知ることを目的としていたため、どちらが正しいだとかそういう結論めいたものが出たわけでもない。(あとネタバレがあるのでご注意いただきたい。)

ざっくりと後輩の意見をまとめると、

1.いじめの描写が出てくると現実感が無くなる
2.「そうはならんやろ」と思う場面が複数ある
3.私だったらこういう展開にはしないとシナリオライター目線で考えてしまう
4.罪を犯したものが前を向いて歩みだすことを良しとするのが嫌(大意)
5.顔の上に×の描写が嫌
6.髪の長い女の子(植野)が嫌いだったのを覚えている

らしい。

1.「いじめの描写が出てくると現実感が無くなる」について。

いじめの描写が出てくると気分が嫌になるというところまでは共感できたが、現実感が無くなるというのがピンと来なかった。
いじめの実際と違うんじゃないか、と思ったとか?と聞いてみると、「そうではなく、(気付いてないだけかもしれないが)これまで身の回りにいじめというものが無かった」「私だったらしないと考えてしまう」という言葉が出てきた。
聲の形に限らず、いろいろな作品でいじめの描写が出てくるとそう感じるらしい。
実際のいじめや子供や思春期の精神医学的なことを知っていて、それとの乖離を感じて現実感を感じなくなる、ということではないようだ。
これってなんだろうと調べてみると、これかな?というのがあった。「想像的抵抗」。

想像的抵抗(imaginative resistence)とは、他の物語やフィクションを鑑賞している際には、それなりにうまく想像的活動できるひとが、特定の物語やフィクションの場面において促された想像的活動(主に道徳的価値や美的価値などの価値評価を含んだ想像)をうまく行えないときに起こる。たとえば「嬰児殺しは善だ」ということが成り立ってしまっている物語の中の状況があったとして「嬰児殺しは善だ」と発言しているキャラクタがいること、どうやらこの物語の世界ではそういうルールが成立していることは想像できるが「嬰児殺しは善だ」という価値評価を含んだ想像を活き活きと行うことが難しい、というとき、想像的抵抗が起こっている。

文学の哲学にはどのようなトピックがあるのか

つまり、「自分にとって非倫理的な命題を想像するときに、あまり想像力が喚起されない」ということかと思う。

我々は「母親が嬰児を殺す」という内容を論理的には納得するが、なかなかリアルに想像できない。そのような内容をリアルに想像させるには、なんらかの形でそこに別の力を与えなければならない。物語作品が持つフィクション性はその想像力を喚起する力として最たるものである。

フィクションが現実の事件へもたらす影響について。

・自分にとって非倫理的である
・その上で想像力が喚起されるほど没入できる物語でない

という要素が組み合わさったときにこの想像的抵抗が起きやすいと仮定できるかもしれない。 こう考えると共感できる。後輩にとってこの作品のいじめの描写は非倫理的であって、想像力が喚起されるほど没入できる作品構成になっていなかったということなのかな。

この作品のいじめの描写は僕にはすごくリアルに思えた。 いじめを見たことがあるとか、いじめに意識的になったことがあるかどうかでマウントをとるようなことではないし、そうする気はないが、リアルに思えて没入できた理由がある。

小学生のころ中国の現地校に通っていたが、開校以来初めての外国人だった。
えこ贔屓してくる先生がいた。みんなが怒られるような状況で、「君、日本人だっけ?」と確認され、「君はいいよ」と一人だけ許された。それが原因で「なんであいつだけ」と不満が溜まったクラスメイトの不満は僕にも向いた。すごく素直で自然な反応である。
硝子のために朝の時間を使って手話の勉強をしましょうとクラス全員に強制させようとした先生は、もしかしたら同じようなことをしていたのかもしれない。素直に不満を感じる子供は当然いただろうし、それによって肩身が狭くなるのは硝子である。なんかすごく感情移入してしまった。

日本に帰ってきて、バングラデシュ出身の子とベナン出身の子が仲良くしてくれた。毎日のように遊んでいたが、「あの外国人3人組をいじめようぜ」と身も蓋もないことを口にしながら楽しく遊んでいるところを常に邪魔してくる人たちがいた。 心の底でどんなことが起きていたのかは今は分からないが、異質なものが気持ち悪いという自然な反応だったのかもしれない。肌が黒いとか、癖っ毛で分厚い眼鏡をかけている(僕)とか。
補聴器を手に取って「きったねえ!」と外に投げる石田は、いじめようという邪悪な大きな心があってやったのではなく、気持ち悪いという素直な気持ちからそのようにしたように思える。 大人目線で倫理的であるとは全く思えないが、子供がそうしてしまうこと、子供にとっては非倫理的ではないこと、そういうことが起きることはすごく理解できる。

僕にとっていじめの描写で想像的抵抗が起きない理由は、 僕にとって非倫理的でも子供にとってはそんなの関係なく素直にやっちゃうんだろうな、と思うし、作品の中に共感して没入してしまう要素がいくつかあったからなのかなと思う。

2.「そうはならんやろ」と思う場面が複数あるについて。

これは、石田が補聴器を外に投げるシーンや、石田が硝子を引っ張り上げたときに石田が代わりに落ちるところとか、そうはならんやろと思ってしまうシーンがあったとのこと。

僕もそうはならんやろ、と思ってしまうことはたまにあるが、 当事者だから起こしちゃう不条理な出来事もあるし、偶然だってたくさんあるし…と思うのと、最近は「なぜそれが起きたのか」を考える。

例えばハイスコアガールという作品(他いろんな作品でも)で、こんな主人公のどこにヒロインがこんなに惹かれるのか分からないという意見があったりするが、そんなどこが良いのか分からないような人に自分だけが気付いているような良さがあるとしたときに、物語はちょっと違って見えてくる。

ボーっと見てるから「あぁ、起きたんだ」と受け止められるだけかも。

作品の見方に違いがあるなと感じた。

3.「私だったらこういう展開にはしないとシナリオライター目線で考えてしまう」について。

私だったら、硝子をそのまま死なせるか、石田を生き返らせない、ということだった。 石田が生き返らないことで、硝子が自殺をしようとした自分を顧みる、という話だったような気がする。

これについて僕は、作者は、「犯してしまったどうしようもない罪を抱えてそれと向き合い前に歩みながら普通の恋愛をする高校生」を描きたかったんだと思うので、作者のその描きたいテーマに沿った展開だと思うという点で違和感は無かった。

4.「罪を犯したものが前を向いて歩みだすことを良しとするのが嫌(大意)」について

この作品の最後がある意味のハッピーエンドであることで、犯した大きな罪を容認して良いという感じがして嫌だったとのこと。

なるほど。 僕はこれまでいくつもいくつも罪を犯して人を傷つけているので、この作品がある種救いになった部分がある。許されちゃダメだけど、少し受け止めてもらえた気がした。 人は多分自分が犯した罪については鈍感で、無自覚に人を傷つけていることが往々にしてあると思っているので、このエンディングを否定することは自分がある種許されることを否定するようで、その勇気が無かったとも言える。

その後輩は罪に無自覚な鈍感な人では無いと思うから、たぶん自分に厳しくて自分で自分を苦しめてしまうような人なんじゃないかなと思う。

5番と6番については言葉通りという感じだった。

作画や音楽、演出の熱量すごいよねという話は同意見だった。やっぱ京アニすごい。

好きなレビューを引用する。

小学6年生と中学生、高校生の3つの時を繋ぐ、先天的な聴覚障害の女子、西宮硝子と自己承認に苦しむ男の子、石田将也を中心とした少年少女達の心の葛藤の物語。
誰もが自分の不完全さを薄々感じ、だからこそ誰もが安全な居場所の確保に焦り、誰もがそれを他人に知られたくないから不本意な演技を繰り返す。
自分を守る為、家族の負担を軽くする為、友逹を失いたくない為、そして友達を救う為。人の中で生きることの息苦しさを乗り越えるには、自分自身の強さも弱さも全て受け入れ、その未熟で不完全な姿を素直に認める事、その先にしか受容出来ない人の不完全さを認める事の大切さを痛切に訴えるシナリオ。
この誰もが通過する思春期の儀式を、決まった型に嵌め込まず、不揃いの蒼い若者達の心の叫びや出会いに委ねたストーリーこそ、本作の潔さであり、賭けでもあった。その絵画的描写はとても繊細で複雑、頭で理解するのでなく、胸のザワつきと肌で感じさせる演出がとても鮮烈で、観客すらも一緒に試されている錯覚に陥っていた。
その相手は決して若者逹だけでなく、寛容精神や社会性をとっくの昔に会得して卒業したつもりだった大人達の慢心をも巻き込むに十分な尖り方で、つい私も惹き込まれたのだ。
この作品の心の叫びに応えた国内観客や40ヵ国弱の配給海外諸国を併せた総額約60億円の興行成果に、日本アニメの持つ万国共通の普遍性と社会影響力を改めて思い知った。
最後に本作の特色に、大人の男性や父親役の不在がある。子供の成長には威厳や論理、経済力とは別次元の、不完全さを自力で乗り越える為の余裕を与える母性の後ろ支えが一番大事なのかも知れないと感じた。
今後益々、女性の社会進出が普通になるなか、子供達が両親だけに頼らず、仲間と共に人生を学び育っていく社会変化の必然性を予見した、とても大切な作品に思えてならないのだ。個性を認め個性と歩む、日本人にとって実は苦手かも知れない新たな世界を迎える為に、多くの方々に観て感じて欲しいと思える、稀なる意欲作です。

 不完全な自分を認める事が人を受容する土壌

何より類稀な点は、音楽の牛尾憲輔氏の拘りである。 ピアノを解体し、鍵盤やハンマーが響くその物理的な音(ノイズ)を追求し、ヘッドフォンをつけなくても、音楽の中にはっきりと軋み音が聴こえてくるのだ。その音は、今まさに視聴している者の目の前にて起きているような臨場感を与える。
これら全てが、一つとなって、クライマックスまで足掻いて足掻いて足掻いき終えたあなた(主人公)は、今まで見たことのない景色を目の当たりにするだろう。
そのとき初めて、絶望したり、後悔したり、後ろめたい気持ちで悩み続けてきたあなたは、こんな形で、報われるのでしょう。
私はそれを、願っています。

 心にずっと残り続ける作品


ふと、King Gnuの白日ってめっちゃ聲の形じゃない?と思った。

今週の猫

🎈

「禁止」の無い行動の誘導

正解がないテストクリエーティブテストのヒミツ(前編)

「そば屋に来た人にうどんを注文させる広告を考えなさい」という問題に対して出た自由な答えの一つとして、
「365日蕎麦を食べさせてから連れてくる」というものが出ていた。

AかBかどちらかの行為が選択できる場において、AではなくBをしてほしいというとき、
その「場」の前にAをとことんやってきてもらう、というのは「禁止」の無い良い行動の誘導方法だなと感じる。
特に対象がAをやりたがっている場合において。

アルバイト先では塾ではないが塾のような形態をとっている。
毎週通い、好きなものを作る。その中でITの知識に触れたり学んだりしていく。
もちろんちょっと辛抱して頑張るシーンも出てくる。
モチベーション高く通っている子もいれば、週によって気分の浮き沈みがあったり、
すぐスマホゲームをしたがる子や、youtubeを見たがる子もいる。
僕らも、子供達の教室に到着した時点でのテンションは0であるくらいの想定でテンションをあげてもらう仕掛けを模索するが、
待合室で思う存分遊んでからきてもらう仕掛けをするというのは一つ、良い行動の誘導方法だなと感じる。

形にしていく上で、
・思う存分遊んだ感
・とってつけたような偽物でないこと(素材やUI等において本物であり、没入感があること)
等が大事になってきそう。

今週の猫

「消せない」の効用/道具と思考

最近、毎日絵を描いてSNSに投稿している。(今日で19日目)
毎回、線の種類や引き方を変えたり、影の落とし方を考え、色の置き方を考え、
体のそれぞれの部位の形がとれなくて試行錯誤したり、好きな絵を観察してみたり、
次から次へと小さな研究テーマが見つかって楽しい。
そして毎回「もっと上手く描きたいもんだなあ」「次はここの表現を考えてみよう」と思いながら筆を置く。

絵はipadを使って描いている。
しかし最近、ペンを用いて紙に漫画を描くことがあったのだが、
その際に頭をフル回転させながら慎重に筆を運ぶ自分に気付いた。
「よく考えて」描いていた。

これは絵を描くときに限った話では無いと思う。
消せる鉛筆と消せないペンでは、前者は消せることからくる書き出しのハードルの低さがある一方、
後者はよく考えて書くという行動が誘発される。

どちらが良いという話では無いが、ツールで大きく頭の使い方が変わってくることは面白い。

余談だが、これは五年くらい前の模写絵で、以前は模写絵ばかり描いていた。


何が楽しかったかといえば、もちろん線を紙に引く禅的な(?)楽しさもあったかと思うが(絵を描いているときは深呼吸をしている気分になった)、
写真みたいですごいね!と言われることが嬉しかったのだと思う。
それと比べると、今は絵を描くことに以前より楽しみを見いだせている気がする。

今週の猫

赦しがやってくるとき

光明寺僧侶の松本紹圭さんのラジオが好きでよく聞いているのだが、
浄土真宗本願寺派僧侶の石田明里さんとの赦しについてのお話が良かった。
そのときの内容を大意で書き出してみる。

あの人を怒らせてしまった。
憎しみを向けられている方(許す側)は、自分から何もできない。
謝ることはできるが、どこまでいっても許す主体は許す側にある。

しかし、実は許す側の人も、どうにもできない。
許せないから許せないのであって、「許してあげたら」と言われても、どうしてもそのことを思い出してしまう。
繰り返し思い出すから自分でまた自分を傷つける。自分でダメージを増幅させてる。
そこから抜け出すのは最終的には神の仕事なのではないか。
許す側も許される側も赦しがやってきて、ようやく終わる。

ではいつ「赦しはやってくる」のだろうか。
石田明里さんは、血を流して磔になっているキリストのビジュアル、
こんな残忍なことに対しても全てを赦すその姿を見て日々過ごしている(カトリックの人たちに関して)というのは、
赦しにつながっている部分があると考えていると仰っていた。

許すために理屈を辿って、あれこれ考えていても赦しはやって来ず、
どこかの景色を見に行ったり、映画やアニメを見たり、本を読んだりコンサートに行ったり、
絵を見たり、おいしい食べ物を食べたり、その食べ物を作った人の話を聞いたり、動物を見たり、
そうした中でふと、赦しはやってくるのかもしれないと思った。

今週の猫

ほにゃ・そびゃ・とにゃ

本屋と打とうとして間違えてほにゃと打っても、本屋と変換される。
ちなみに、ぱにゃを変換してもパン屋になった。
そびゃは蕎麦屋にならなかった。
うどにゃはうどん屋になった。
おでにゃはおでん屋にならなかった。
とにゃは問屋になった。

「配置」と打とうとしたが、「は一」とかしか候補に出てこず、おかしいなあと思って「はいぜん」と打って変換をしたが、
これまた「は以前」などと出てきて困ってしまった。
どうやら名詞のすぐ後で変換していたことが原因らしく、名詞の後にスペースを空けて変換をし直したら思い通りの変換ができた。
そんなことあるんだ。

そして今、そのときのことを再現するためにわざわざ「は以前」と変換してしまったからに、「配膳」に変換しようとしても「は以前」しか出てこず、「は」と「いぜん」で変換するまとまりが分かれているため、一発で変換ができない。一応変換するための文節区切りの位置を変更するには、変換しているときに「Shift+やじるし」で変えられるが。

今週の猫

アルバイト・考えていること/神秘的な森と仲間

アルバイト先では、子供たちの「未知にワクワクしながら、自分らしく自分の世界を広げていく力」をITの力を用いて育むことが根底の理念として存在する。
具体的に何をしているかというと、プログラミングという道具を使って自分の好きなものを作ったり、3Dプリンターやレーザーカッターなどのデジタルファブリケーションツールやレゴを用いてロボット等を作ったり、blenderやtinkerCADを使って自分の世界観を表現したりと、好きなように活動する子供達を私たちメンターがサポートしている。

私たちの役割は、知識を詰め込んであげることではなく、子供たちが「好きだなぁ、やりたいなぁ、やってみたいなぁ」と思ったことに何かしらの障害が立ちはだかったとき、自分でその障害を取り除く力を育むサポートをすることだ。

「自分で障害を取り除く力」とは、
1.「未知」や「挑戦すること」を面白がれる力
2.自己肯定感・自己効力感
3.課題を突破していくための知識・知識を手繰り寄せる検索力
のことだと個人的に考えている。

1について私が具体的に気を付けていることは
成果主義になりすぎないことである。
試行錯誤という過程が楽しいから何度でも挑戦できるし、その上でいつのまにか目標を達成している。というのが一つの理想なのかなと思っている。
「できること」「知っていること」に重きを置きすぎると、
「知らないことを知られたくない」「できないと思われたくない」「できなそうなことに挑戦したくない」「できたように見せかけよう」
という気持ちが湧いてきてしまう。
だから、「できたー!」と報告してくれたときに「やったー!」と一緒に喜ばしい気持ちになったことは正直に表に出すが、
それを直に褒めるのではなくて、「何をしてできたのか」という一層だけ深掘るようなワンクッションを入れ、そうやって挑戦したこと、やってみた過程の部分がすごいことを伝えるように気を付けている。

そしてそれと同じくらい重要なのが、保護者の方への毎授業最後のフィードバックの時間だと思っている。
保護者は大抵目に見える進捗や成果の部分にばかり目がいく。
子供たちが授業中にいくら「これだけ試行錯誤してこんなことがわかった!すごい!」という気持ちになっても、
一番近いお母さんやお父さんに「全然進んでないじゃん」と一蹴されたら気持ちはどん底に落ちる。
安くないお金を払っている身としては、「未知」や「挑戦すること」自体を面白がれる力というような測り辛い基準より、制作の進捗という目に見える物差しで判断したくなる気持ちもわかるし、実際制作の進捗は大切だ。
そんな保護者の方々に、「どんなことに挑戦したのか」「どんな風に試行錯誤していたのか」「このプログラムの何がすごいのか」というようなことを細かく噛み砕き、子供を褒めるサポートをする。

この噛み砕いて説明する力は教室で非常に重要視されているが、私はそれ以上に、授業内で実際に「ワクワクする試行錯誤の機会」を提供し、それが可視化されていることが重要だと考えている。
つまり、保護者へのフィードバックの時間を、「私たち、ちゃんとうまく関わりましたよ」という言い訳の時間になどしたくない。

これがわかんない!わー!ってなっちゃっている子がいたとして、
この子は視覚優位の傾向があるかもなという子や多動気味かなと思う子には、一緒に近くのホワイトボードの壁のところまで行き、一緒に絵を描きながら「作戦会議」をしたり、
聴覚優位の傾向があるかもなという子とは、対話をする中で考えてもらったり、言葉で考えるのが得意そうな子には、言葉を紙に書き出してもらって、それをプログラムのブロック化をしていったりする。
答えを教えるのではなく、考える道筋から一緒に辿っていくのは先述の「3」にも繋がる。
そして何より大事なのは、一緒に立ち向かう「仲間」がいることだと思う。
近くにいる友達に相談したり、逆に教えてあげたり、そういう関わり合いを子供同士ですることが「ワクワクする試行錯誤」に繋がると考えている。
そうした仕掛けをちりばめて、保護者の方々にはその過程も細かく説明をする。


このように日々私たちも答えのない問題について考え試行錯誤しながらお仕事をしているが、
最近特に考え続けていることがある。
a.コロナの影響でオンライン授業に移行したとき何が一番困ったかというと、こうした仕掛けの手札の大部分が封印されてしまったこと。オンラインで「ワクワクする試行錯誤」の機会を提供する方法について。
b.すでに「知らないことを知られたくない」「できないと思われたくない」「できなそうなことに挑戦したくない」「できたように見せかけよう」という気持ちが強くある子たちとどう関わるか。

bについて、親御さんはかなり焦っている。
「このままじゃ将来この子が楽な方ばかりに逃げる大人になるんじゃないかと不安で」と言う。
しかし「このままじゃロクな大人にならないよ。プログラムがんばりなさいよ。」と大雑把に言われても子供は困る。
おそらく重要なのは、今イキイキとやっている好きなことを存分にして良い居場所があることを伝えることと、
その子への提案を細分化して、「こうしてみようよ」とわかりやすく伝えることだと思う。
あと、一緒にがんばる仲間がいること。

aについては…難しいなぁ…。
オンラインってむしろいろんなことがダイレクトに伝わる感じがあるし、なんか緊張する。
オンライン授業でどう居場所感を感じてもらうか…。

いろいろ考えていると、
御膳立てしすぎか?という考えもよぎる。
「神秘的な森」と「美味しいお弁当」と「準備のために自分で自由に使える少しのお金」と「仲間」があれば、子供たちはいくらでもイキイキと準備し冒険していろんな発見をしてくるはずだ。
どうにかこの「神秘的な森」と「仲間」を作るという部分で自分に力できることがないか考えている。

今週の猫

ゴゴゴ…

景色を脇役に、光に着目しながらする散歩

光を観察しよう。何色だろう? 主光源は何だろう? 他に光源はないか? 電球や太陽からの直接光か、それとも空や窓からの拡散光か? 影はあるか? それはくっきりした影だろうか? 霧やちり、霞など、光に影響を与える大気中の要因はないだろうか? その光を受けて美しいと感じるだろうか? もし美しいと感じるなら、それはなぜだろう?

『画づくりのための光の授業』リチャード・ヨット著

即物的なハウツー本かと思い手にとってみたら、思っていた以上に文学的であり、理論的でもあり、景色や映画の見方が広がる素敵な本だった。

最近動画編集にDaVinci Resolveを用いるようになり、カラーグレーディング等について改めて勉強したくなったので楽しく読んでいる。3DCGのレンダリングをするのもさらに楽しくなった。

日常的な状況では、ほとんどの光源は色を帯びているが、人間の脳はそれをうまく修正し、実際に見ている絶対的な色ではなく、納得しやすい相対的な色として知覚している。

手元のmac book proも、シルバーに思えてよく見れば暖色のデスクライトに照らされて彩度の低いオレンジ色をしている。さらによく見れば、そのデスクライトの光が弱まって届いている部分は蛍光灯の光によって青白色をしている。日陰も黒ではなく、濃い青みを帯びている。それは天空光が反射するからであり、日陰にも光があるのは、大気が光を散乱するからである。では大気のない月面では、日陰に立てば真っ暗闇のはずである。


景色を脇役に、光に着目しながらする散歩をしたくなった。


あまり関係ないが、以前からテクスチャ採集の散歩なるものをしている。
よく見れば、テクスチャ浮き出具合もライティングの方向に随分左右されていることに気付かされた。

これは猫のテクスチャ。

「写真」という訳語は、やはり明治以降ですかね。戦前に「光画」っていういい方がありましたけど、あのほうがいいとおもうんですけどね。

『写真<イメージの冒険7>』(河出書房新社/1978)谷川俊太郎さんの言葉。

「身体として共存している」という感覚を呼び起こすためのコミュニケーション

だれかがしゃべり、別のひとがそのことばを聴き、そしてことばを返すというふうに、「一度に一人だけがしゃべる」リニアなプロセスというのは、わたしたちにとっては自明のもののようにみえても、人間の会話にとってかならずしも絶対的なものではない。

『「聴く」ことの力 ー臨床哲学試論』 鷲田清一 著

アフリカ南部のカラハリの狩猟採集民族であるグウィ族では、会話はしばしばことばのやりとりにならないという。グウィ族の調査を長年行っている人類学者の菅原和孝さんは、「むしろ相手の発話に同時にじぶんの発話を重ねるというようなコミュニケーションの形態というのがあるのではないか」と問いかける。

「歌」のように進行する会話。
「意味」や「物語」を交換するのではなく、「身体として共存している」という感覚を呼び起こすためのコミュニケーション。

そういったコミュニケーションを設計したとして、歌や音楽との境目をどこに置くか。

スカイプ等の音声電話をつなげたまま作業をする、サギョイプなるものがある。
最近ソフトが高性能になり、発話をしていないタイミングを自動的に検出し、ノイズをカットしほぼ無音に加工してくれる。
個人的には、息遣いやスピーカーの向こうから聞こえるちょっとした環境音が聞こえることがサギョイプのミソであったように思えるため、ありがたくも少し残念に思ったりする。

気配を感じたいのだ。
そこで現在、
・発話やこちらの音がアンビエント音に変換され相手に届けられる「サギョイプ環境」
・さらにその「サギョイプ」によって生成される、世界に一つだけの、参加者で作り上げた「アンビエント音楽」を保存して音源にできるサービス(?)を企画している。

関係あるようにもないようにも思えるが、純粋音声詩というものがあるらしい。

今日の猫(といってあげている写真は以前撮った「今日あげる」猫の写真である。最近はほぼ家から外に出ていない)

口笛言語/皮膚感覚を伴ったTwitter

“言語とは、陸軍と海軍を持つ方言のことである” 

ユダヤ人言語学者Max Weinreichのこの発言は、自分たちが話す言葉がはたして「方言」であるか、それとも独立した「言語」であるかについての認識には、その言葉を使う共同体が独立国家を持つか否かといった政治的・軍事的要因に左右される面があることを示している。

Ethnologue第18版(2015)(キリスト教系の少数言語の研究団体国際SILの公開しているウェブサイトおよび出版物)によれば、世界には7102の言語があるという。
しかし、同一言語の中の方言を区別する明確な基準が無いことによれば、「世界にいくつの言語が存在するか」という質問への明確な答えも存在せず、言語は驚くほど多様であるといえる。

口笛言語のシルボ語というものがある。叫び声の10倍遠くに届き、谷の向こうの人に何気ないツイートをしたり、ご飯に誘ったりすることができるという。普通の会話はもちろん、政治についてなど複雑な会話もできる。皮膚感覚を伴ったTwitterのようだ。
音声言語においては、声や訛り、喋り方の癖などから個人を特定することは難しくないが、このシルボ語ではどうなのだろう。

今日の猫

漂流する文字/書き文字の残留思念

「エクリチュール」は、文字、あるいは書き言葉を意味するフランス語である。

『広辞苑第六版』には以下のようにある。
①書くこと②書き方。書体。文体。③書かれたもの。文字。文書。


ジャック・デリダは著書『署名、出来事、コンテクスト』の中で、エクリチュールを「漂流物」や「痕跡」、あるいは「幽霊」や「郵便」などの隠喩によって説明している。

文字を「漂流物」と表現するのは面白い。
例えば今村の「今」は僕の氏名の一部だが、時の表現や、「その上に」という副詞的用途であったり、地名など、様々な状況で使われる。
このように複数の文脈を横断すること、あるコンテクストから解離し漂い、違う文脈に収まったりすることは、簡単に言えば「一つの漢字でいろいろな単語が作れるね。」ということなのだが、
この現象を「漂流」と再解釈してみると景色が広がる。

書き文字ではまた様子が違ってくるように思う。
シンプルな情報としての文字と違い、そこに筆跡(書き癖や筆圧)というような記名性がある。
「今ひまー?」の今と、何度も頭を下げながら「今一度、考え直していただけませんか」の今では、字形も変わってくるのではないか。そこには残留思念のようなものがまとわりつき、文字単位で切り取ったとて、文脈を横断して違う文脈におさまることは大変難しいのではと思う。

至極当たり前のことを言っているとは思うが、このような粒度で言い換えや例示、再解釈を行う行為が、自分にとってはアイデアの種になる。


今日の猫