カテゴリー: 雑記

「心の体重をどすんとかけて」する行為/散歩と音採集

手当たり次第に写真を撮る行為を止めて、ほんとうに「撮りたい」と心底思ったときに撮影した写真とか、一日一枚しか写真を撮らないと決めて心の体重をどすんとかけて撮影した写真は、日記と同じ効果がある。

小松正史『機械を捨て、まちへ出よう』

撮影する、見る、聴く、触る、鑑賞する、話す、食べる、読む、遊ぶ…など、
いろいろな動詞について、ここでいう「心の体重をどすんとかける」にはどうしたら良いだろう。

写真を一日一枚しか撮らないと決めるのは良い仕掛けだなと思う。
めちゃくちゃ重くてでかいカメラをあえて使っている写真家もいるらしい。

聞こえてくる音をメモ帳に書き出しながら散歩をすることがある。
今考えると、「心の体重をどすんとかけた」散歩だったかもしれないと思う。

以下はある日のメモ

雀が飛び立つパタパタパタ
駅が近くなってゆっくりになる電車のダダンドドン
電線から落ちる水滴のポトン
クロネコトラックが止まる前のブルルルルルピー
4人組女児先輩「普通の声これなんだよー!!すごいでしょーー!?」
「あの花なんだ?」「バラじゃないの?」「バラはこれ!」「ああああー!!!!」「それは叫んでるでしょー!」
なんかの虫の音「ピィ ピィ」
まだ遠くで叫んでる女児先輩「わああああ!」
飛行機の音ショオオオオ(ゴォォ)
濡れた道を走る車のシュワアアアアア…
電車の空調ドロロロロロ
電車のドアが閉まるとき「テンポン」
ウォーターサーバー売りの陽気なお兄さん「ドゥッハッハッ!」
エレベータの鳴き声「ピリリリリリル…」
僕と同じ無印のリュック背負ってる白シャツのお兄さんの歩く音ザッザッ


できる限り本当に聴こえた音を書き出そうとしている。
電車の音はガタンゴトンと言いがちだけど、よくよく聴くとダダンドドンに聞こえた。
記号としての電車ではなく、「あの環境であの電車があの線路の上をあのスピードで走っていた現象」が記憶されるような感じがする。


今日は免許更新に行った。

運動会のテントじゃん。

並んでいて、今免許更新で並んでる人、みんなほとんど自分と同じ乙女座ってこと!??
って気付いた。

今日の猫

翻訳とニュアンスの調律

英和辞典をペラペラめくっていると、たまたま”chew”の項目に目が留まった。

「かむ」という日本語を英語に訳すと、
bite:ひと口かむ
chew:よくかんで細かくする
crunch:音をたててかみ砕く
という風に、日本語では同じ「かむ」だが、
英語では明確に単語を使い分け、表現を区別しているらしい。

その項目を見て、例えば「噛み砕いて説明する」という表現も、
ひと口かんで「ほら」と続きは自分でかんでもらうのか、
よくかんで細かくして説明するのか、
音をたててかみ砕くことで、「こうやってやるんだよ」「楽しそうでしょ」と示すのか、
ほどくとニュアンスがいろいろありそうだなと思った。
一度翻訳を挟むことで、使おうとしている語のニュアンスが調律される。

英語学習のモチベーションは恥ずかしながら今のところあまりないのだが、
最近興味のあるジャンルのコンテンツが英語であることが多く、英和辞典が欲しくなった。
こういうものには、付箋が貼れたり線が引けたりする方が嬉しい。
自分に合う英和辞典を求めて古本屋を2軒訪ねた。

結果ライトハウス英和辞典を購入した。(おそらく最新版なのに古本価格で800円だった)
灯台のロゴのシンプルな装丁に惚れてしまった。

挿絵の雰囲気も非常に良い。
単語と訳がただズラッと並ぶだけでなく、積極的に図式を挟んでくれるのが嬉しい。
冒頭のように、ただペラペラめくっているだけでも目が留まるフックがあるのは良いなと思う。
また、こういう辞書は紙が分厚いとテンションが半減してしまうのだけど、紙の質も好きな感じだった。

良い買い物したな。

今日の猫







「共感ができない作品」は「没入感の損なわれる悪い作品」か?

僕が読んで感動して、すばらしい知恵の書物だと思っているものを、他の人はくだらない駄本だと思うことはよくあります。ちょっと考えると、「ふん、ろくでもない本だね」と切って捨てた人のほうが頭がよさそうに見えますけれど、書物との出会いという点で言えば、これは僕の「勝ち」なんです。他人が価値を見出せなかった行間に輝く価値を見出したのは、僕のリテラシーの性能がそれだけよかったということになるわけですから。

内田樹『街場の文体論』

又吉直樹さんが、たしか『夜を乗り超える』という本の中で「『共感ができなかった』と本を低評価する人がいるが、せっかく自分の感覚を広げる機会なのにもったいないし、読書はその感覚が広がっていく感じが楽しい」というような意味の発言をしていたように覚えている。

私も、数年ほど前まで主人公の心理や行動に「共感ができない」「理解ができない」作品が読めないことがあったし、何ならそういう作品を「没入感の損なわれる作品」として低く評価していた。
作者が1年とか、多くの時間をかけて書いた物語や心情を、なぜ一読程度で理解できると思ったんだろうか。
ある時期から、「理解できないことが作中起きた時、一旦あるがままを受け止め、なぜそれが起きたんだろう?なぜそう思ったんだろう?」と考えるようになった。作品を「先へ」ではなく「奥へ」と読み進んでいくイメージだ。

摂取すると濃いお酒を飲んで喉がカーッと熱くなるような(?)作品を読むのも好きになったし、
読んでからしばらく落ち込むような本も好きになった。
自分の価値観と沿わずに喉が熱くなったり、落ち込むような作品の中に、奥へ奥へと足を踏み入れていくことで自分の感覚が広がっていくような感じはたしかに楽しい。

「共感ができない作品」は「自分の感覚を広げてくれる作品」だった。
でもこれは、他人に強要してはいけない論理だと思う。
うまく言えないが、
一人で作品に向かい、「共感できない自分に気付き」「それを受け止め、受け入れ」そういった内省の中で「自分の感覚が広がっていく」のであり、感覚を広げることを他人から強制されるのはなんか違う気がする。

何が違うのかは違う機会に考えてみようと思う。

だから、積極的に内省し自分の感覚を広げようとしない他人に、
自分が感動した作品について語る気にはならない。
とりあえず見て!とも言えない。

今日の猫

好きなもの嫌いなもの

好きなもの、嫌いなものを書き出してみた。
嫌いなものが憎しみの塊みたいになってしまった。

好きなもの

食べ終わったと思ってたら奥の方に残ってたポテト-年末年始-本屋にいる時間長い人-眠いときに丁度調整で止まってくれる電車-察しが良い脇役-ケチャップ-充電100%-年越しの瞬間2355見てる人-男気ジャンケンに絶対参加しない人-皆でギュウギュウになって乗るタクシー-たこ焼き-恵方巻き文化-立体駐車場-ディスコードのボイチャ-食べたいときのサラダ-自分で焼いた硬めのステーキ-プラスチックカード-玄米カレー-ラジオ聴きながら散歩-存分に伸びた後の散髪-京成の電車の中の扇風機-いつの間にか結構ポイント貯まってるJREカード-足の小指-郵便局-湯船浸かりながら読む本-石鹸と晩ごはんの匂いがしてくる夕方の住宅地-小さめの段ボール箱-かるかん饅頭-薄葉印刷紙-細いペン先-看板-期限に余裕を持って手続きしに来たときの事務窓口-本の背表紙-キャスターが付いてない椅子-電波塔のシルエット-四角い消しゴム-個人経営のコインランドリー-深呼吸-ムーミン-団地の小宇宙感-空いてる電車での移動時間-ファミマのフワフワのホットミルク-ピンポン球-USBメモリ-2Bの鉛筆-給水塔-カキフライ-付箋-ピングー-Aadd9-目薬-アニメのイモムシ-鳥-耳栓-耳かき-低音-広々したファミリーレストラン-二度寝-ヘイホー-高くて薄い空-サロンパス-ストーブ-静かな場所-将棋解説の雑談-待ち時間

嫌いなもの

クチャラー-湯船浸かりすぎてお湯が冷めて出るに出れなくなるとき-コンタクト液が目に染みるとき-プールのタイルの錆びてるとこ-愛という言葉で正当化される行為-静電気-ん〜モイヒ〜-「考えさせられた」という感想-赤の他人とスッと打ち解ける海外の人の動画のコメント欄で自国文化卑下して冷笑する流れ-歩く時の左右の振れ幅が大きくてゾンビみたい歩くの遅い人-ポリティカルコレクトネス等の世の大きな流れにただ便乗して誰かを叩き、自分の頭が良くて分別のある人間かのようにアピールする行為-ニュースのタイトルしか見ずに内容を語ってしまう人-大きな音-邦ドラに出てくるガチガチの教育ママ-仮想敵立ててずっとSNSで怒ってる人-達観的で悟っている浅薄な人-「〇〇ってそういうもんだよ」-出発前物がない

人間が抱く「悪意」は、善意や優しさや思いやりよりずっと、その人の本質に根付いていると思うから、そうしたものを見せ合うことはむしろ好きだ。友達の嫉妬だとか怒りだとか、そういう悪意を見るのはおもしろいし、嫌いなものに対してずばずばと怒りを表明するその姿は、かわいい犬にはしゃいでいるときよりずっと「その人らしい」とも思う。

最果タヒ『きみの言い訳は最高の芸術』

「嫌いなことより好きなことを語っていたい」と思っていたことがあるけど、好きなことが好きだから生じた嫌いなことだったりするし、その人のバックグラウンドが色濃く影響していたりして、嫌いなことについて語ることはその人の深い部分を知ることにつながることが多い。
今は嫌いなことを介して人と会話をするのもいいなと思う。

今日の猫

小説独特の表現と人物が心の中で生きているような実感

ようやくぼんやりと瞼を開けた目が、鳥が羽根を伸ばすように長い睫毛をゆっくりと動かし、瞬きをした。

秋ひのこ『はしのないせかい』

この表現の時間感覚が引き伸ばされた感じというか、被写界深度が浅くて一箇所にピントが合っている感じというか、ミクロな表現が小説独特で良かった。映像に変換するとしたら、画角いっぱいに目のドアップを映すのだろうか。それじゃ余白がなくて品がないので、景色のカットを挟んだりするんだろうか。
実写に対してアニメーションはその点、抽象的な幾何学のアニメーションや、抽象世界でのキャラクターの演技が挟まることで想像の余白を生んでくれたりして好きだ。

「雪が掌で溶けるように淡く微笑んだ」という表現も良かった。
こういうふうに五感が呼び起こされるような人物の描写がされると、心の中でその人物が生きているような実感が強くなっていく。

今日の猫

どんなに言葉を覚えたとしても

平家物語のPVを見た。

泣いてしまった

ありがとう
ごめんなさい
ごめんね
ありがとう
すまぬな

あした
あさって
これから
このさき
ずっとさき
もっとさき
いつか
またこんど

morohaの「バラ色の日々」という曲で、こういった歌詞がある。
ちゃんと伝えよう 素直な気持ち
ありがとう さみしい ごめんね すきだよ
どんなに言葉覚えたとしても
ひらながの想い 大切にしよう

また、こんな記事がある。
2019年の7月頃の新聞だったと思う。近くのコインランドリーに置いてあった。

デトロイトビカムヒューマンというゲームにおいて、アンドロイドは、アンドロイド同士の愛情表現方法として、手と手を合わせる。
合わせた部分のスキンが剥がれ、メモリを共有してるのか言語に出力できない気持ちみたいなものを送り合っているのか、そういうことをしているように見受けられる。

人間にとってのそういう様な気持ちの共有装置が、ひらがなの短い言葉なんじゃないかと思った。

おはよう
おやすみ
ごめんね
ありがとう

今日の猫

自分の限界を知っている哀しみを、生きる力に変えてゆく強さ

「自分の限界を知っている哀しみを、生きる力に変えてゆく強さが、私にはあります。」

綿矢りさ『ひらいて』

強い言葉だなと思う。

同じ空間にいると、悲しいっていうネガティブな気持ちが悔しいっていう次につながる気持ちになったり、悲しいが楽しいにクルッと変わったりする、みたいな人がいる。
なぜそういう感じがするのか観察してみると、
その人はゆったりと、でもしっかり自分のことを見てくれている感じがする。
「しっかり」は文字通り。
「ゆったり」は、これが全てではない。なんだって大したことはない、というような、流れに身を任せる気楽さ。

そういう感じで自分のことをゆったりしっかり見てあげることが、生きる力になっていくかもしれない。

今日の猫

行きまあああす!!!

https://mag.sendenkaigi.com/brain/201511/up-to-works/006466.php

この広告が好き。
伝えたい人にメッセージを届けるためのジャストミートな表現だと思う。
「本当にコアなファンならわかるよね〜」みたいな身内感やマウンティング感を出すでもなく、
あ〜軽すぎるなあという感じも全くせず。
ガンダム好きだよ!っていうシンプルな熱量が表現されていて、
ちょうどな温度感で必要な情報(ガンダム展が開催されること)が伝わってくる。
いいな〜〜

今日の猫

日常の陰に

しょうもなさの陰に実は切なさや「いま」が刻印されているのも、本作の優れたところだと思う。
なんの変哲もない夏のようでいて、そこに数多のドラマや輝きや、「どうにもならないこと」がひそんでいる。それこそが、我々が生きる日常の本質なのだと、改めて感じることができた。

三浦しをん – 宮島未奈『ありがとう西武大津店』へのコメント

一つの大きなメッセージや、大きな起承転結がある訳ではないような「セトウツミ」や「大豆田とわ子と三人の元夫」などが好きだ。人物が物語を動かすための記号でなくて、本当に生きているように日常を過ごしていて、見終わっても心の中にずっと登場人物が生きてくれているような感じがする。

宮島未奈さんの『ありがとう西武大津店』を読んで、
最終日に「おつかれさまでした」って知らないおばあちゃんが声をかけてくるところ泣いてしまった。

こうしていくのが良いのか悪いのか分からないままに迷いながら続けてたことを、誰かが見届けてくれたというのは、それだけで意味があってあったかい。


私はよくiphoneで写真を撮る(iphoneで撮れる写真の飾らなさも好きだし、一眼をわざわざ持って行ったのにメモリーカードがささっていなくてやむを得なくiphoneで撮ってることもよくある)。
猫の写真など特に、きめきめの構図でばっちりピントが合っているものより、ブレブレで逃げられているくらいの写真の方が猫らしさが出ていて自分では好きだ。

友人がGRⅢというカメラをおすすめしてくれた。
製品サイトのコピーがとても良かった。

GRを手に、日々を撮る。

煌めきの瞬間を探し求めない
イメージだけを追い求めない
平凡は平凡のままに
心の動きに正直に、目の前のいまを切り撮る。

GRⅢそしてGRⅢx。

それぞれの視点で重ねていく毎日が
今をかけがえのないものにする。

http://www.ricoh-imaging.co.jp/japan/products/gr-3/

今日の猫

きゅうりの丸齧りが実際以上に美味しそうに感じるのは


きゅうりの丸齧りが実際以上に美味しそうに感じるのはとなりのトトロの影響だろうし、雨の日も良いなと思うようになったのは言の葉の庭の影響があるだろうし、電柱を見て郷愁を感じるのも、ひぐらしの鳴き声を聞いて切なくなるのも、木漏れ日が煌めいて見えるのも、全て何らかの絵画や映画、アニメーションなどの作品が背景にあるように思う。

オスカーワイルドは「自然が芸術を模倣している」と言っている。

絵に対する褒め言葉として、「本物みたいですごい!」というものがあるが、常々それとは別の言葉ですごいって伝えたいなと思っている。絵の本当の価値は、見え方を変えたり拡張してくれたりするところにある気がするから、自分としてはしっかり感動を伝えられている気がしない。

人間の背中をアングルによって知った時、あるいは、ゴッホのひまわりによって、自然のひまわりを見る目が少しでも変わったとき、私たちは「自然が芸術を模倣している」と早合点するのです。ところで、この早合点の何とすばらしいことでしょう

安野光雅『空想工房』

今日の猫

「本当に面白くなさそうで面倒でしょう。それでもはじめましょう。」

〜「文学」の「私」を疑うことはブーメランのように「あなた」の「私」に跳ね返る仕組みです。
「楽しむ」以外にそういう「本」の読み方があるのです。
本当に面白くなさそうで面倒でしょう。

それでもはじめましょう。

大塚英志『文学国語入門』

それでもはじめましょう。
「面白いからついてきて!」と引っ張ってもらえるのも魅力的だけど、「面白さを見つけるのはお前だ」と突き放されるのも良いな。
実際世界に面白さを見つけるのは自分だし、あなたはそれができるよね信じてるよと言われているようでもある。

本文中、新指導要領についての記述がある。
何かと騒ぎになっていたのを覚えている。
マニュアルや契約書といった、「文学」とは対極にある文章を読み解くことを学ぶ「論理国語」を重視し、対して「文学国語」は軽視されるというような報道がされていたように記憶している。
しかし、原文に目を通したことは無かった。

再生数は少ないが、この動画が一番わかりやすかった。
現行のものとの比較、小中高でどのように目標が構成されているかがまとめられている。

原文:平成29・30・31年改訂学習指導要領(本文、解説)
原文を元にしたスライド:新しい学習指導要領の考え方-中央教育審議会における議論から改訂そして実施へ-

まだ全く浅くしか読み込めていないかと思うが、今の段階で目標の構成に目を通して抱いた印象は、
従来のものは、「国語ってなんで勉強するの?」という問いに対して、
「国語は大切だからだよ」と答え、「国語はなぜ大切なの?」という問いに対して、「国語はとても大切だからだよ」と答えているような、「国語科」の中で学びが完結してしまうような感覚を受けた。

対して新指導要領は、そもそもなぜ国語が大切なのか。何のために国語を勉強するのか、どういった力がどのように育成されることを目指しているのか、これらが私の頭でも読み取れるような構成になっていた。

しかし新指導要領には、国語科は「他者と社会の中での関わり方」の涵養※が目標だと書かれています。
それこそは、明治期に成立し「転スラ」にまで至る日本の「近代文学」が一貫して問い続けてきたものなのです。「私」が「社会」の中で「他者」と生きる手立てを理解するツールとしての「近代文学」。その読み方を学ぶため、まずは「文学」を「疑う」ところから始めましょう。

涵養:自然にしみこむように、養成すること。無理のないようだんだんに養い作ること

大塚英志『文学国語入門』

実際の授業や教科書がどのように変わっていくのか興味深い。
『文学国語入門』は、付箋をぺたぺたと貼りながら一通り読んでみたがなかなか咀嚼するのが難しく、
もう一度じっくり読んでいる。

今日の猫

「正しく」あるために言葉や思考を制限すること

他者や社会を意識して、「正しく」あるために言葉や思考を制限する。
そうやって誰かを傷つける可能性が減る分、自分のことを忘れていくのだろう。

みっともないことであり、最低なことであり、だからこそ誰にも言えないと、存在を否定される感情にこそその人がいるように思えた。

最果タヒ『きみの言い訳は最高の芸術』

みっともない悪意や、最低な自意識を含めて、自分の内側を否定せず一度受け止めてくれる(本文の言葉を借りれば「その人がその人だけの悪意の存在を認める瞬間が作られる」)のが文学や詩であり、
そういう悪意や自意識が、物語の中で反響して跳ね返ってきたものを見つめて、改めてその悪意や自意識をどう扱えばよいのか考えることができるのかなと思う。


今日ワクチンの2回目を打った。副反応はまだなんともないけど、
同じく最近2回目を打った友人のその後の容体を聞けば聞くほど、
今スプラッシュマウンテンの頂上にカタカタ上がってる気分。

今日の猫