カテゴリー: 雑記

苦しんどいた方が幸せになれるのかなというのと、ホラー映画について

ホラー映画が見れない。
大きい音が苦手で、びっくりさせられるのも嫌だ。グロテスクなものも見るためにもかなりカロリーが要る。
高校の文化祭のお化け屋敷程度で、列に並んだことを何度もかなり後悔していた。
でも、ホラーはジャンルとしてすごく確立されているような感じとか、
ジャンル横断的にコンテクストがあって、そこを読み解きながら観たりするのも面白そうだと思う。
ホラー特有の手法とかも興味深い。
ホラー映画見てみたいな、という話なのだが、
今回話したいのはこの切り口からではない。

「ホラー映画を見る」という苦しみを経たら、今よりずっと楽しく見れるコンテンツが増えるんじゃないかと思ったという話だ。

エピソード1:
小さめの話から。
こどもたちと一緒にプログラミングを学びながらものづくりをする塾のような教室での話。
一番長くアルバイトしていた場所である。

毎週約3~4人×6コマで20人ほどの生徒の授業を受け持ち、
授業設計、授業実施、親御さんへのフィードバック、授業後メンター・社員同士で振り返り今後の計画を立てる、というようなことをやっていた。

あるとき、特性を持ったお子さん(年長さん)と、非常に教育熱心で厳しく、特にお子さんに対して否定的な目線の強いお母さん親子のいる授業を割とメインで受け持つことになった。

簡単に言うと、非常に胃を痛くしながら悩んだ。
バイト以外の日に、そのコマの授業の夢を見て、汗だくで起きて「あ…バイトじゃなかった」とよくなっていた。
結論、自分に属人的な課題をあることを自覚したことと、加えて授業システムにも課題があるのを感じ、それを解決するプロダクトを自主提案して、教室の授業フローが少し変わった。
この結論はこの話の本筋ではない。

その出来事があってから別日に、「かなり大変なコマだけど大丈夫?」と言われ入った授業で、非常に余裕を感じた。あのコマに比べたらな…と思った。余裕があったので自分も楽しめて、子供たちにとっても良い時間になったのかなと思う。

ひとしきりしっかり苦しんだから、ちょっと大変めな状況で楽しみを見出せたのかなと思ったというのが、ここで言いたい話だ。

エピソード2:
事情があって、学部2年の後期から独立生計を立てている。生活費含め全て自分で工面しているため、授業料免除をいただいてなんとか大学に通えている。
「殺しに行く」というメールを受けとったり、いつ来るかわからない電話に怯えながら某テーマパークでニコニコ働いていた。休学をしたため同期の友人ともほとんど疎遠になり、復学後は「生活費の工面」「自分の学び」を両立できるバイト先を探し働いていたが、ブラックインターンに疲弊ししばらくバイトを減らしていたら、電気水道ガス全て順番に止まったこともあった。ガスだけ止まった場合はケトルで沸かしてシャワーを浴びたりしていた。

そんな中、印象的だった出来事があった。
仲の良い友人の誘いで軽音サークルのライブを見に行った。
今考えるとだいぶ自分の認知が歪んでいたと思うが、そのときは悔しすぎて涙が出た。
親から仕送りを貰い、学業もそこそこ適当に、サークル仲間と仲良くワイワイやってる人達が、その場だけかっこいいライブをして、なんかかっこよく見える。
悔しくてライブ中めちゃくちゃ泣いてしまった。

対して自分はただ「自分が苦労していると自分で思っている」だけで他に何も無かった。
この出来事から繋がっているような、繋がっていないようなではあるが、
自分が楽しいと思うことをやっている人、自分の興味のあることを追求している人でありたいと思った。

アルバイトを2つ3つ掛け持ちし、大学の課題もこなしながらそうあるためにはそれなりのバイタリティーが必要で、だからこそか結果今、少し大変めな状況に置かれても、自分を幸せな状況に置く力が増したというか、割と楽しく踏ん張れるようになったなと思う。

ホラーの話に戻る。
こういった経験を踏まえて、
怖いホラーで「苦しいな」という思いを経たからこそ余裕を持って楽しく見れる作品があるんじゃないかと思うのだ。
ホラーの良作があれば教えて欲しい。

今日の猫


純文学とエンタメ小説

エンタメ小説が起承転結に沿って「物語」を提供してくれるのに対し、
制約が無く自由なのが純文学だと(大意)、作家の羽田圭介さんが言っていた。

「泣ける」「ドキドキハラハラ」など、読者の感情をある方向に持っていってくれることを約束してくれている文学がエンタメ小説。
読んだ後に、「は?どういうこと?」「読んでもたらされたこの感情はなんだ?」ってなったり、「オチは?」となったり、言い換えれば「起承転結という装置を使って感情を誘導する」という制約がなく、約束事を守らなくても良い自由な文学が純文学であるという。
「わけわからない」のは、今自分の感情が大雑把に分類されているからであり、そういった感情を本気で観察するのが純文学。

ここまではっきりと定義をすると、世の中の本が、純文学かそうじゃないかと仕分けることが逆に難しいことに気付く。
起承転結にのっとりながら、文単位での裏切り等のテクニックが秀でている小説や、
自由でありながら多くの人の感情をある方向に持っていく小説もある。


今日の猫





ウホホ

ウホホホイ、ウホホウホウッホ
ウホホ?ウホ

ウホッホホウホ、ウホウホ
ウホホイウッホホ
ホホホイホホイ、ホホエ?
ホホイウホウホウッホホ


ウホホイウッホホウホウホ

ウホホ『ホホイホホウホ』

ホホイホイ
ゴリホホイ、ウヒヒウホ
ホホウホ

ウホホイホウホ

わからない

その一つの死は天にとどいて行ったのだろうか。わからない、わからない、それも僕にはわからないのだ。僕にはっきりわかるのは、僕がその一つの嘆きにつらぬかれていたことだけだ。そして僕は生き残った。お前は僕の声をきくか。

原民喜『鎮魂歌』

ことばの可能性を信じたモーパッサンとは対照的に、原民喜はことばの限界を自覚しながら現実と向き合った。


「感動を書き表すことはできないが、感動の中で書くことはできる」というような意味のことを、『言語表現法講義』の中で加藤典洋先生が言っていたように覚えている。

わからないものを適当な言葉で表し蓋をしてしまう前に、
わからないままに、そのわからない状態の中で生まれ出てくる言葉や何かを大事にする。
チリを核として、周辺に水滴が付き、浮遊し湯気となって目にみえるように、
わからない状態を大切に、周辺に水滴の付く核としていきたい。

今日の猫

二つの「わかる」

小説家のギュスターヴ・フローベールは、
「才能とは、ながい期間にわたっての忍耐にほかならない。」と始め、
「大事なことは、表現したいと思うものは何でも、じっくりと、十分な注意をはらって見つめ、まだだれからも見られず、言われもしなかった一面を、そこから見つけだすことである。」と続ける。

どんなに些細なもののなかにも、未知の部分が少しはあるものだ。それを見つけ出そうではないか。燃えている炎や、野原のなかの一本の木を描くにしても、その炎や木が、われわれの目には、もはや他のいかなる炎、いかなる木とも似ても似つかないものに見えてくるまで、じっとその前に立っていようではないか。

モーパッサン『ピエールとジャン 序文』

目の前の人物が、同じ人間の他のいかなる人物とも違って見えるようになるまで、
また目の前の事物が、同じ種類の他のいかなる事物とも区別がつくようになるまで、
その前に立って観察しようではないか。才能とは、そこで長い期間忍耐できるかどうかである、と、モーパッサンの師匠フローベールは述べた。



「分かる」は「分ける」であるという風に、ある程度記号化して分類することが「分かること」であるという理解の方向性があると思う。
しかしこのフローベールの言う、記号化された物事を、同じ記号を持つもの同士にも差異が見つかるほど観察せよ、という考え方も一つの理解の方向性であると思う。

この二つの「分かる」を両輪に携え行き来しながら物事と向き合っていくことは大切なことに思えた。


フローベールの言うことを少しでも理解しようと、一つ物を観察してみることにした。
目の前にステンレスのペン入れがある。
同じ工場で生産された同じペン入れは、全国あちこちにあるだろう。
それらと似ても似つかなくなるまで見てみる、とのことだが、シンプルな形のこのペン入れにそんな特徴は中々見つからない。
一度触れてみると、冷房に当たっていることもありヒヤッとしていることに気付いた。持ち上げて底を見てみると、消毒液で机を拭いた液体の跡がついていた。
そのペン入れのことが少し分かった気がする。

今日の猫

1単語で「自分が人工知能でないこと」を証明してください

1単語で「自分が人工知能でないこと」を証明してください。というアンケートをとったことがある。
googleドライブを整理していたら発掘されたので久しぶりに見てみた。
42人回答してくれていて、こういうアンケート(しかも自由記述)に時間を割いてくれる優しくて利他的な人、本当に有り難くて宮沢賢治ですか…?となる。

回答一覧を末尾に載せる。

一番ドキッとしたのが
「うるさい」という回答だった。
質問に一対一で対応する回答ではなく、
「私がこのアンケートをSNSやLINEグループに投稿した」という、質問文の外の文脈に対する発言(アンケートを投稿した私がうるさい、と苛立った的な)だとも捉えられ、人間っぽさを感じたのかもしれない。

他に類似の回答を挙げるとするなら、
「課題?」(意味:このアンケートは課題でやってるの?)や、
「おじおじ」(意味:私が応援している将棋棋士の愛称)、
「ブックオフ」(意味:私がさっき行ってきた場所)、
みたいな切り口があるだろうか。

「あえて一単語で答えない」という回答もあった。
一単語じゃない回答は結構多く、「一単語で」という明確な条件を出している問いにおいてこの回答は、人間っぽいかもしれない。

「チューリング・テストって、何ですか」
「アラン・チューリングっていう数学者が考え出した、機械の知性を評価するテストのこと。こういうふうに人間とコンピュータに同じ質問をして、応答によって両者の判別ができなければ、その機械は知性を持っていると言ってもいい、っていうテスト」
「そうだとすれば、『ぶ』の変換ミスで、知性のあるはずの人間を当ててしまったのは皮肉ですね」

早瀬 耕『グリフォンズ・ガーデン』

『グリフォンズ・ガーデン』は今年の春頃に読んだSF小説だ。
シミュレーション仮説を軸に据えたSF要素と青春小説の要素がかけ合わさった話だったように記憶している。
シミュレーション仮説についての話はよく聞くが、その舞台設定上で展開されるお話に浸ったことはなかったので新鮮で良かった。高揚しながらとても気持ちよく読んだのを覚えている。
ここまで書いて手が止まった。感じたことは書き留めておかないと数ヶ月後には記憶の抜け殻しか残っていないなと常々思う。

回答してくださったみなさま、ありがとう😌

人工知能は全滅しろ!
性欲旺盛です☆
あえて1単語で答えない
うるさい
すみません、よくわかりません
1単語で答えない(人工知能なら確実に1単語でその質問に答えようとするため
要領よく仕事できません
無理
小さい頃の思い出をかたる
愛されてるね、私
過去がある
ヤバタクスゼイアン
デストルドー
ママーーー!!!(女性声優に対して)
無理
ばかになれたら楽なのにね
飯が食える
ペンパイナッポーアッポーペン
童貞
洒落たジョークが全然思いつかないのは、人工知能みたいにプログラマーにジョークの語彙を実装されていないからである
無理(人間には)
ゥチ
大嘘
進捗0
わかりました
あったかいんだから〜
おはこんばんちは〜〜〜
食欲
意味がないことをする。おしぼりをひたすら折りたたむとか
それは詰みだわ
常識がある
飲食
眠い
人工知能の定義によるので もしかしたら私は人工知能かもしれない。
人の顔と名前すぐ覚えられません
機械音痴
めんどくさい
ものぐさ
その質問に答えるのは無理だとプログラミングしたはずなんだけどな。
疲れる
不可能

今日の猫

じっさいに読むこと

小説が果たす役割の一つとして、公式な記録や歴史書からはこぼれおちてしまう私的な記憶を刻み込む記録としての役割がある。
自分だけの記憶を言語化しようとしてありふれた言い回しや表現に頼ってしまう時、しばしば「自分だけの」という固有性が失われてしまう。
今の自分の中では(言葉にならなくても)オリジナルで新鮮なまま保存されていると思っていても、他者や未来の自分に伝える際に、そういった喪失が起こってしまうのだろうと思う。

小説家が初めて世界と向き合うように、感じ、触れ、見つめ、澄ましてつかみ出した言葉に触れることは、
そういった喪失を防ぐことになるのだと思う。
そして、そのような「言葉に触れること」とは、ある本「についての」知識を得ることではなく、「じっさいに読む」ことであるのはおそらく言わずもがなであり、今の情報の流れが速い世の中で私はどうしても知った気になってしまうことが多いなと自省する。

古典とは、その本についてあまりいろいろ人から聞いたので、すっかり知っているつもりになっていながら、いざ自分で読んでみると、これこそは、あたらしい、予想を上回る、かつてだれも書いたことのない作品と思える、そんな書物のことだ。

須賀敦子『塩一トンの読書』 『本なんて!作家と本をめぐる52話』より

ある本「についての」知識を、いつのまにか「じっさいに読んだ」経験とすりかえて、私たちは、その本を読むことよりも、「それについての知識」をてっとり早く入手することで、お茶を濁しすぎているのではないか。

須賀敦子『塩一トンの読書』 『本なんて!作家と本をめぐる52話』より

今日の猫

「移動」と「旅」の境

「移動」と「旅」の間に境目をつけるのは難しい。
目的地があって手段としてする移動に対して、移動自体が目的になっていることを旅と呼ぶか、いや
目的地に到着するために仕方なくする移動にも「旅」を感じることがある。
「旅とは、住んでいるところを離れて、よその土地を訪ねること」という辞書に載っていた解説も、いささか杓子定規な印象を受けた。

両者に明確な区切りは無く、
ただ、そこに含まれる「未知」と「偶然」の分量によって、多ければ多いほど旅に近付くのではないかと思った。

私たちは旅、未知と偶然の要素を多く含んだ旅に出るとき、どこかへ行きたいとか、なにかを調べたいとかなどといった、なんらかの意味で目的を持った自分の意思とは別に、一種のあやしい胸のときめきを感じる。

中村雄二郎『好奇心 知的情熱としての』

旅という単語から一番に連想する本が、多和田葉子氏の『地球にちりばめられて』だ。

ざっくりと
留学中に故郷の島国(たぶん日本)が消滅してしまった女性が、スカンジナビアの人々に伝じる独自の言語を作り出して生き抜きながら、言語学を研究する青年と共に同じ母語を話す者を捜す旅をするお話、とまとめてみた。

大辞泉で実施された「あなたの言葉を辞書に載せよう。2015」という企画で「旅」へ投稿された作品の中に、以下のようなものがある。

想像を働かせ、感じること、触れること、見つめること、澄ますこと。そして、受け入れること。

ゆずさん

『地球にちりばめられて』にぴったりな「旅」の解釈だと思った。

「恋人は古いコンセプト。わたしたちは並んで歩く人たち」

Hiruko- 多和田葉子『地球にちりばめられて』 より

複数言語、また創作言語の交雑を通して、物事に直に触れ、見つめ、感じ、澄ます。そして受け入れる。この話のそういう部分に魅力を感じた。

今日の猫

何度もゆっくり読んでみる

今の家に住むようになって、駅前の商店街を軽く1000回は行き来していると思う。
1000回以上通っていても、未だに新しく気付くことがある。
この家にはこんな面白い位置に室外機がついていたっけ、とか
このお店のロゴ、こんなに堂々とした書体だったっけ、とか。

自分より感じる網目がずっと細かく、一度通るだけでもたくさんのことを発見して吸収している人がいるんだろうなと思う。

川上弘美の『神様』を一度読んで、同じことを感じた。
魚を捕まえてくれたくま。「わたし」が昼寝している間に魚が三匹に増えていて、愛おしくなった。
読んだ後、「わたし」と同じように「悪くない一日だった。」と思った。
そういう感想で十分だと思ったし、満足もするが、
「もっとずっと感じる網目が細かく、一度通るだけでもたくさんのことを発見して吸収している人がいるんだろうな」と、全力で走りたいのに足に十分に力が行き届いていないような歯痒さを感じた。

ゆっくり二度目を読んで、うーんと言いながら三度目を読んでいくと、読むごとに違う発見があった。
「くま」は「熊」ではなく、「クマ」でもない。
近隣にくまが一匹(頭ではなく匹で数えていて、小さめのクマなのかなと思う)もいないことから、名を名乗る必要がないということだった。例えばアメリカ人でスケボーが趣味のマイケルという友人がいたとして、彼のことを「アメリカ人」と呼ぶのとくまを「熊」と呼ぶのは近いと思う。「スケボーの彼」と呼ぶのと「クマ」が近く、「マイケルくん」と呼ぶのと「くま」が近いと思う。
そういう距離感で「わたし」は「くま」のことを認識していたのかなと思う。

「呼びかけの言葉としては、貴方、が好きですが、ええ、漢字の貴方です、口に出すときに、ひらがなではなく漢字を思い浮かべてくださればいいんですが、まあ、どうぞご自由に何とでもお呼びください。」
とくまは言うが、くまがわたしに語りかける台詞においては「あなた」が使われている。
一人称のこの小説においては、「くま」に「わたし」がどのように見えているのかはわからない。
くまがひらがなではなく漢字の方の貴方を思い浮かべながら呼んでくれているかは見えない領域であり、
だからこの「あなた」は、語りの空白なんだろうなと思う。
この語りの空白を通して、くまがわたしをどう見ていたのかを、読者が想像を広げていけるのだろうと思った。

「速く読めなくて良い。ゆっくりで大丈夫」と自分を許し、何度もゆっくり読んでみると、
小説の奥へ奥へと入っていく感じがする。
遅読という考え方や、平野啓一郎さんの提唱するスロー・リーディングという考え方、『本は読めないものだから心配するな』という本と出会ってから、本に触れるのが楽しい。

今日の猫

雨だー

「カリスマ性の皆無さ」と「自説を無限に修正する可能性」

「かもしれない」が口癖で、つい「〜なんじゃないかな…」が語尾についてしまう。
断定ができない。

SNS等でキャッチーな肩書きを掲げ、広義の後輩に向けて「これはこうだ」と力強く断定し発信している人を見ると、その自信の端くれでも欲しいなと思う。

この自信の無さは長所とも言い換えられそうで、でも自分としては、もっと及び腰にならずに気にせず自分の意見を言ってしまいたいと思っていたし、そういう自分に「カリスマ性の皆無さ」を感じていた。

「自分の主張は間違っている可能性もある。」という前提に立つことのできる知性は、自説を無限に修正する可能性に開かれている。それは「今ここ」において付け入る隙なく「正しい」議論を展開する人よりも、将来的には高い知的達成にたどりつく可能性が高い。

内田樹『話を複雑にすることの効用』

しかしこの文章で、自分で感じていた「カリスマ性の皆無さ」を「自説を無限に修正する可能性」と言い換えてもらったような気がした。

経験のある方はご存知だろうが、「私の主張は間違っている可能性がある。」と思っている人間たちが集まると、その議論はたいへん迅速に進行し、かつ内容は濃密で深厚なるものとなる。

内田樹『話を複雑にすることの効用』

たしかに経験がある。
自分の立論の整合性や妥当性と他人の立論の破綻を過大評価し、自分の立論or他人の立論という対立軸から離れられない人とより、「私の主張もあなたの主張も(広い意味で)間違っている可能性がある」という前提のもと、Aなのか、Bなのか、という二項対立ではなく、昇華した中間としてのCを考えられる人との方が、スムーズにことを深堀りしていける。
そういった人相手だと、AとBの意見の遠さを楽しみながら対話ができる。
私もそういう人でありたいと思う。

今日の猫

作品に親しむ気持ちが自然に湧いてくる問い

「ケイシー」はどのような人物か、また「レキシントンの古い屋敷」はどのような屋敷か、まとめてみよう。

三省堂『精選 現代文B』

国語の教科書に載っていた、村上春樹『レキシントンの幽霊』を読んだ。
その「学習の手引き」の中の一つ目に、上のような問いがあった。

僕だったらの話だが、「『ケイシー』はどんな人物かまとめてみよう」と言われるより「『ケイシー』と今度会う予定ができました。どんな話題を持っていってどんな話をしますか?」と問われた方が、直に作品に触れていく感覚がある。

例えば犬の話をしたいなと思う。彼の飼い犬のマイルズはどんな性格で、どんな食べ物が好きなんだろう。
柴犬を知っているだろうか。焼けたパンのような色をして耳が三角形をしている。
レコードはどこで何を見て買っているのだろう。今も生きていたら、spotifyとかは使ってるんだろうか。
彼のユーモアの源泉を知りたいなと思う。どんな本や映画がお気に入りなのか尋ねてみたい。

この作品の主題を捉えたり、一つ一つの表現が暗示する物事を把握するのは、一筋縄ではいかないように思える。だから、「学習の手引き」4つ目の問いで「『僕』は『レキシントンの幽霊』の体験をどのように受け止めたのだろうか、次の点に留意して話し合ってみよう」と突然言われて戸惑ってしまった。

雲を掴むような段階から頑張って前へ進み、捻り出すことにも価値があると思いつつ、もう少し、作品に親しむ気持ちが自然に湧いてくるような問いが細切れに存在していたら、「鑑賞する」という行為がもうちょっと身近になるのかなと思う。

今日の猫

体験そのものは消えてゆき、言語化された形で伝わっていく、のか

小説は基本的には虚構の話だが、「しかし文学ではない現実のできごとも、私たちが現場に居合わせることは少なく、仮に自分が見聞きしたことであっても体験そのものはやがて消えてしまうので、常に言語化された形で伝わっていく。」(小平 麻衣子『小説は、わかってくればおもしろい:文学研究の基本15講』)

そう考えると、小説を読んで豊かな言語化の手段に触れることで、自分の体験もより豊かで新鮮なものになっていくとも思える。これが小説を読む実利的な理由の一つだとも言える。

しかし「仮に自分が見聞きしたことであっても体験そのものはやがて消えてしまうので、常に言語化された形で伝わっていく。」という部分には、8割共感し2割共感しきれない部分もある。
2割について、例えば、ある音楽やラジオを聴きながらある土地を散歩をし、後日その音楽を別の場所で耳にした際に、「あの土地でのあのときの感じ(空気感とか気温とか気分とか)」が思い返されることがあるからである。それは全く言葉になっていないが体に残っていた感覚だ。

カメラは、視覚情報を外部に保存する装置だが、
逆に視覚情報を内部に焼き付ける装置が出てきたりするんだろうか。
身体に強烈な刺激を与えるながら視覚情報を得ることで、後に同じ刺激を与えるとそのときの感覚が呼び起こされる、みたいな。

今日の猫