
ピザの赤ちゃん

何が?

お茶が良く「でるでる」という意味らしい。よくこんな怪しいパッケージにしたな

はじめる→やさしい→できるよ
やさしい→できるよ→がんばり
の進化過程いいな。

自分のあり方に痛みを感ずるときに
人の痛みに心が開かれる
今日の猫

ピザの赤ちゃん
何が?
お茶が良く「でるでる」という意味らしい。よくこんな怪しいパッケージにしたな
はじめる→やさしい→できるよ
やさしい→できるよ→がんばり
の進化過程いいな。
自分のあり方に痛みを感ずるときに
人の痛みに心が開かれる
今日の猫
「どうすれば戦争が終わるか知っていますか?」
「それは、平和を願い、憎むことをやめれば…」
「いいえ。戦争は、国家間の交渉の手段でしかない。憎まなくても戦争は起こる。
どうしても手に入れたい領土、資源、利権、思想や宗教やプライド、それらの目的を巡って戦争は起こる。
だから、その目的がはたされれば、戦争は終わる。
または、利益に見合わない数の人が死ねば、戦争は終わる。
怒りも憎しみも、戦争を有利に運ぶための手段でしかない。
僕はそんな感情に興味はありません。」
アルドノア・ゼロという作品中の伊奈帆くんとアセイラム姫さまの会話だ。
「どうすれば赤の他人への配慮に欠けた詮索、誹謗中傷が無くなりますか?」
「それは、相手の気持ちに立って考えて、自分の人生に目を向ければ…」
眞子さまと小室さん周りのニュースが本当にきつい。
できるだけ目を通さないように情報を避けていたが、他人の話に興味のない人や応援している人ほど声が小さく、配慮に欠けた人たちの声は大きく、それが世論のように取り上げられるのが癪なので、応援している旨だけSNSで発信した。
他人の人生に興味持ちすぎ人間を非難したり、相手の気持ちに立って考えてと啓蒙したりしても仕方がないだろうし、他人の話に興味を持つ人は多く、人は心の底に冷酷さや悪意を持っているものだと、人間の悪い部分から目を逸らしていてはいけないんだなと思う。
だから漫画アプリに設けられた匿名の雑なコメント欄に、作者を誹謗中傷し、自分の思った展開にならなければボロカスにコメントを書く人が出てくるのはすっごく自然で避けようが無いと思うし、作者さんが見える場所にそんなコメント欄を用意してしまうことは悲しいことだなと思う。
なんかもう、すっごいありそうな会社の実在してそうで実在していない合成人間を一定数作り上げて、有り余った人間の悪意のサンドバックにするのはどうですか?インターネットをもっともっと信じられない場にしていき、信じられないことが誰からも大前提になる世の中。
虚構新聞、大好きです。
今日の猫
21_21という美術館でアルバイトをしたことがある。
作品を鑑賞する人々を見ていると、みんなほとんど同じ体勢で作品を見ていることに気付く。
手を後ろに組んで、ゆっくり足を若干地面に擦り移動しながら作品を見る。
これが芝生の上に座りながらとか、みんなが各々自由に変わった体勢で見たら見え方も変わるんだろうか。
主従関係が強い時代で、すべての人が平等ということを示すために茶室の入り口は低く(頭を下げなくてはならない)狭く(刀を外さなくては入れない)なっていたという。
2kmくらいルームランナーで走ってからじゃないと見れない作品とか、きっちり服を着込まないと寒すぎる展示室とか、いろいろとありそうだけどそれらは押し付けがましそうでもあり、でもみんなが同じ体勢で作品をしっぽり眺める感じもなんかしょっぱい。
学部3年の頃、暗闇の中をペンライトで照らしながら見進める展覧会を学祭で開いたことがある。
「皮膚」「スペキュラティブデザイン」をテーマにしていた。
拙く手探りな展示だったと思うし、それを言葉で大袈裟に飾ることもないと思う。
部屋を暗くしてみるっていうのも大それたアイデアではない。
でも、「自分で照明を照らす」「光の強さで作品との距離感が変わる」「照らした先を一緒に見る」
っていうのは面白かったし、多分明るい部屋だったらサラッと見て終わっていたかもしれないところを、
みんなあちこち探しながらゆっくり見てくれていたように思う。
今日の猫
死ぬのは怖いけど、自分が自分のまま中身がまるで別人のようになってしまうことがもっと怖い。
脳梗塞の後遺症で、それまでとても穏やかだった人が忘れっぽく粗暴な性格に豹変し、家族に当たり散らす、とか。その当たり散らされる家族目線のエッセイ漫画など読むと非常に辛くなる。
そういう意味で一層健康には気を遣わねばと思うけど、大きな健康被害が無くても人の中身って簡単に変わっていってしまうものなのかなとも思う。仕事をし始めて人が変わった、とかよく聞くが、日々にゆとりがなくなって大変になると人が変わってしまったりするんだろうか、嫌だなあと漠然と思っていた。
先日、精神科医の名越先生のこの動画を見た。
好調な時ほどかえって人を傷つけやすく、調子が悪い時、落ち込んでいる時は人の優しさが身に沁みるよねという話が動画の一部で語られていて、自分のこれまでを振り返っても身を持って腑に落ちてしまった。
「人を傷つけたことが無いのではなくて、傷つけるほど誰かと近付いたことが無かった」という一言が記憶に残っていて、人と人は近ければ傷つけてしまうのが当たり前だとは思うのだが、それでも、自分の調子の波には意識的になりたいと思う。
今日の猫
公園でカレー食べてたらいつの間にかいた
まだ足が若干見えている
「男の人って基本ロマンチストじゃないですか」って言うのを聞いたことがあって、
それについて主語が大きいことや性で括ることの良し悪しは気にならなくて、
性で括ったり主語を大きくしたくなる理由が何かあるんだろうなと思うし、言いたいこともなんとなくわかる。
「いまむってロマンチストだよね」と言われたこともある。
ロマンチストってなんだろうと考えた時に自己陶酔っていう表現が浮かぶ。
「これをしてる自分が好き」「これを言ってる自分が好き」みたいなことかなと思う。
「ロマンチストだよね」という言葉に皮肉が混じっているなら、自己陶酔的だねという意味も入っているんだろうなと思う。
自分の発言や文章にその気があるのはちょっと分かっていて、何か言いたくなった時に、これは本心なのか、それとも「これを言っている自分どや」なのか考えることがある。それが本当に思うことではなく、「これを言っている自分どや」の場合、踏みとどまってもう少し何が言いたいか考えるようにしている。
少し違う視点でロマンチストについて考えてみる。
「男の人ってロマンチスト」という表現を借りて対義語を考えた時に、「女の人ってリアリスト」となるのかなと思う。リアリストっていうのを「地に足がついてること」と捉えながら、日頃の(誤解を恐れずに)ステレオタイプな考え方で言う「女性っぽい」話(賛同をする訳ではない)(注釈つかれた)をするなあと思う人の雑談を思い出してみると、「バイト先の人間関係」「彼氏の話」「誰かの就職の話」「職場の話」等が思い浮かぶ。
対して男性陣の雑談は、「〜の話」とまとまらないような断片的でどうでもいい話や、地に足のつかない話が多いように思う。(真剣な話をしたくてしている人に対して「すごいね〜自分なんかしょうもない話しかしてないよ」と、話の内容ではなく話し手のスタンスの意識の高さに話題をスライドしてくることを勝手に「ダウナーマウンティング」と呼んでいて好んでいないので、そういう意図がないことを明記しておく)
ロマンチストって、「地に足がつかない話」を好んでしている人のことかなとも考える。
どっちかだけってことはなくて、みんなどっちもあるはずだけど、
男性はそういう地に足のついた話を限られた少人数にしかしない人が多いのかなと思う。
今日の猫
棋士の永瀬さんに似てるな
成績を上げることよりも、子供が社会の中でも落伍してでも、横の関係でいたい。
名越康文『名越康文TV シークレットトークyoutube分室』
この人が横の関係を学んで、人と対等に話ができて、人を尊重しつつも自分のプライドを保つことができたら、
どこかでこの人は生きていけるであろうという信念がどこかに、こんなへなちょこな親にもあるんです。
(略)
横の関係で生きることがこの世界で生きていく力になると信じている。
それが本来の人間のあるべき関係性だと信じて疑わないんです。
「横の関係」「対等に話す」「人を尊重しつつも自分のプライドを保つ」とはなんだろう。
それらを聞いて私が思い浮かべることと、名越さんが思い浮かべていることは全然違うんだろうと思う。
以前友人が受講していたHintゼミの内容を思い出した。(資料がネットに公開されていることもあって、内容を教えてもらっていた)
「幸せ視点の経営学」を学ぶ場だという。
この講義は非常によくできていて、スライドで言うと150ページもあるのに読みやすい。
印象に残っているのは、その友人が参加したプログラムの4つ目の回で
「共感を育む対話の技術」というものだ。
何回も反芻し、実行する難しさを噛み締めながら、子供たちとものづくりをする教室のアルバイトで実践をしようとしていた。
特に印象に残っている内容の一部(人間関係の悩み)(150ページ中の10ページくらい)について備忘録的に書き出してみる。
人間関係の悩みに向き合うときに、コミュニケーションの前提として、
「相手の問題」と「自分の問題」を切り分けて考えることが大切になる、というところから始まる。
具体的には、
1.まず問題の「所有者」は誰かを考える
a.相手が問題を持つ
b.問題なし(誰も困っていない)
c.自分が問題を持つ
の場合でそれぞれ切り替える。
この際に(いや常に)「推論のはしご」をゆっくり登ることが必要になる。
そして相手が問題を持つ場合、以下を大切に会話をする。
a.1.「問題所有の原則」
問題を人から取り上げてはいけない。他者が問題解決すると、考える力や自尊心を奪ってしまう。問題は人生の宿題であり、解決策は所有者の心の中にある。
a.2.「能動的な傾聴」
自分の考えは横に置き、相手の経験していること、思考や感情に共感し「今どんな気持ちなのだろう」「何が不安なんだろう」と相手の内面に意識を向け、耳を傾け続ける。
a.3.「未来の質問」
自分のペースで問題を話すことで、相手の感情が整理されてきたら「一番大切なことはなんだろう?」「どのためにどうしたい?」と未来に向けた質問で、心の中にある解決策への気づきをうながす。
自分が問題を持つ場合、以下を大切に会話をする。
b.1.「わたしメッセージ」
相手の行動が嫌なとき「あなた」主語で責めてしまいがち。「なんでいつも〜なの」「もっと早く〜してよ」でも怒りは二次感情(不安、寂しさ、辛さ等が根底にある)こんな時には「わたし」のありのままの気持ちや思いを伝えよう。
b.2.「能動的な傾聴」
自分の気持ちを「私メッセージ」で伝えたあとは完全に気持ちを切り替えて、相手の思考や感情に共感する。「今どんな気持ちなのだろう」「何が不安なんだろう」と相手の内面に意識を向け、耳を傾け続ける。
b.3.「第三案の共創」
無理にどちらかの案を通すのではなく、相互に理解し合うこと。
①お互いの欲求や問題を理解し合う
②それを解決するための第三案をともに考える
相互理解には「自分メッセ」と「能動的な傾聴」が大切。
という内容だ。
いまだに親と子といえば「しつけ」、そして「しつけ」という響きから、縦の関係ばかり思い浮かんでしまっていた自分には、冒頭の名越さんの発言は新鮮な考え方だった。
そして名越さんは、子供相手にも一人の対等の人間として、上記のような対話をしていきたいんだろうな(こういう対話ができる人になってくれれば良いなと思っているんだろうな)と、息子さんとのエピソードを聞いて思った。
今日の猫
ピクニックをした。
昨日4時くらいに寝たのに、気持ちの良い秋晴れのおかげか9時にはすっきり目が覚め、
雑に弁当をこさえ、自家製ポテトチップスをカレー粉と塩(南の極み)で作り、
大きめの公園まで持って行って食べた。
その後、寒くてかなわんと思うまで若林恵さんの『さよなら未来』を読み、千葉市美術館に向かった。
千葉市美術館の図書室、芸術やデザイン系の本がまとまっていて面白かった。ほぼ貸切だった。
もう少し人文寄りの本が置いてあることを期待したけど、修士論文的には伊藤俊治さんの『電子美術論』と出会えたのが幸運だったなと思う。
インスタレーション的な展示について文章で記録されることに関して、大変失礼ながら「それだけのことを言葉を用いてそれだけこねくり回せるんだな」と感じてしまうことがあるが、実際体験しない、当事者じゃないことの弊害はこういうところに出てくるんだろうなと。
そういえばあまり関係ないが、話している時に「自分の言葉に体重が乗らなくなるトリガー単語」的ものがあって、使うのを控えようと意識していたものがある。「解像度」「余白」「身体性」とか。考えた結果使うことはあるが多用していた時期があったため。
後半は『死ぬまでにやりたいゲーム1001』という本をひたすらペラペラめくってメモしていた。
一日鼻水が止まらず不愉快だった。
本当に寒くなった。
昨日はシチュー、今日は鍋を作って食べた。
鍋は本当に楽で美味しい。
今日の猫
読んでいる最中に意味がわからなかったことや、意識をすり抜けていったことが、読み終わってしばらくしてふと全然関係ない瞬間に意味がわかったり、心を動かしてくることがよくある。そういう意味で読むという行為は本を閉じて終わるものではないのだと思う。
『不滅のあなたへ』という漫画作品を読んでいた。
主人公フシは、石のような無機物から人間まで、さまざまなものに姿を変えていく不死の存在である。
姿を変えられる能力を持つ存在のファンタジー物語と捉えながら読むことができるが、
読み終わって生活している中でふと、「その人や物がいなくなったとしても、心の中で生き続けるということ」が描かれているのかなと腑に落ちた瞬間、涙が出た。
この作品は読んでしばらくして急に意味がわかってくることが何度もあった。
小説にかぎらず、創作物はなんでもそうだと思いますが、「読む」(あるいは「見る」「聞く」)という行為を終え、作品が心のなかに入ってきてからがむしろ本番というか、するめのようにいつまでも噛んで楽しめる。一冊の本を読むという行いは、ある意味では、そのひとが死ぬまで終わることのない行いだとも言えると思うのです。
三浦しをん「『罪と罰』を読まない」より
では読むがいつ始まるか、についての実験が「『罪と罰』を読まない」ではされていた。
すごく楽しかった。
秘密の地図を持って4人で神秘の森を冒険している冒険物語を読んでいるようだった。
『罪と罰』をまだ一文字も読んでいないときから、我々四人は必死に「読んで」いました。いったいどんな物語なのか。期待に胸ふくらませ、夢中になって、「ああでもない、こうでもない」と語りあいました。それはなんと楽しい経験だったことでしょう。ページを開くまえから、『罪と罰』は我々に大きな喜びを与えてくれたのです。
三浦しをん「『罪と罰』を読まない」より
今日の猫
誰かが何かを食べているのを見ると安心する
本当に眠くて寝てしまいそうなときに小説を読んでいるときにだけできる体験がある。
昨日は26時ごろまで作業をして、そこから4時間ほど睡眠をとり、起きて昼頃までアルバイトをし、
昼ごはんを食べてからちょっと寝て夕方までリモートワークでアルバイトをし、
そこで久しぶりに目先のタスクから開放されたので、気楽な気持ちで散歩してうどんを食べて研究室に向かった。
今日は多和田葉子さんの『百年の散歩』が読みたいなと思っていたから、本を広げて読んでいたが、
何度も何度もこっくり途中で意識を失った。
寝てしまえばよかったのだが、今日は多和田葉子さんの『百年の散歩』が読みたいなと思っていたので、
消沈しては起き、を繰り返し少しずつ読み進めた。
「ふむふむ〜」とか思いながら文章に沿って情景が思い浮かんでいたのだが、もう一回同じ場所を読んでみると、全然思い描いた情景についての文章が書かれていない、という不思議なことが起こり、4行ほどの短い段落を何回も何回もなぞった。
読んだ小説に夢が混ざっていた。そしてこの百年の散歩も、夢を混ぜたような小説だった。
いたる表記は揺れていて、誤字や脱字が忍び込んでいる。
スポットライトをスポっとライト
途端、トタン
一語、苺、イチゴ
みたいな。
その言語に向き合いたての気持ちというか、「スポッと」ってどんなライト〜?みたいな新鮮な感覚を呼び起こすための仕掛けだろうか。
そういう表記の揺れや、母国語の認識を揺らすような表現が思考を跳躍させ、夢現な読書体験を産んだのかもしれない。
しかし途中でそのことに気付いて自分で再現しようとしてからは、その感覚は再現されなかった。
Berlinはフランス人がつくった町だ、と昨日の夕方「楽しー」の運転手に言われた。そのことが今日のわたしの聴覚世界に影響を与え続けている。Taxiをわたしは「楽しー」と呼んでいて、これは日本語でもドイツ語でも英語でもみんな「タクシー」という苺、イチゴ、一語、に縮んでしまっているモノリンガリズムを崩すために自分で勝手に造った単語である。
多和田葉子『百年の散歩』
楽しー、いいな
多和田葉子『百年の散歩』
(略)わたしはスープを食べた。飲んだ、というのが日本語なら正しいのだけれど、食べた瞬間、日本語が不在だったので、飲んだのではなく食べたのだった。
使用言語が日本語一つでもこういう体験があっただろうか。
それとも普段使いする言語が複数あると、ある体験の最中に不在になる言語、出てくる言語があるんだろうか。
ナイフで小さなジャガイモを真上から刺すのが「ichiわたしは」、二つに切れば「dichあなたを」、インゲン豆を切りながらナイフでお皿を引っ掻いて不快な音を出せば、「hassen嫌っている」という意味なのかもしれない。語尾変化なんかインゲン豆の曲線に任せておけばいい。きいきいきいきい、嫌いよ、あんたなんか。そういう会話をナイフとフォークが交わしている。
多和田葉子『百年の散歩』
今日の猫
靴だった
力んで話している最中、ふと誰かのユーモアに笑い、肩の力が抜けた後に溢れた呟きで自分の本心に気付いたり、点と点が繋がることがある。また、ぼやきのようなちょっとした純粋な問いが思考をほぐしてくれることがある。
自分が尊敬している人に共通点を見出すとすれば、会話にそういったゆとりを持っている人が多いように思う。
ある方向に結論を持っていく力の強いことと同じくらいかそれ以上、その場にいる人々の思考や、感情をほぐすような、問いやユーモアといったようなゆとりを持っていることを尊いと感じる。
ゆとりは私たちの住む地球に対して、宇宙の真空にも似ていようか、それはまた私たちの生きる一生のつかの間に対して、永遠とも言えようか。自分を、自分の心を突き放し、相対化して見ることのできる視点、心の外のもうひとつの心。ユーモアと呼ばれる心の動きもまたそこに根を下ろしているように思われる。
谷川俊太郎『ひとり暮らし』
もしそれこそがほんとうのゆとりであるとすれば、そのゆとりは金や物の多少に関係がない、信心、不信心にも関係がない、思想のちがいにも、教育の高い低いにも関係がない。私たちが知らず知らずのうちに、ゆとりの有る無しで人を判断するとしたら、それは他の基準による判断よりもずっと深いものであり得る。その判断もまたゆとりあるものであってほしいけれども。
今日の猫
誰が言った言葉であろうと、言葉は言葉として発言者と切り分け、その良し悪しが分かる人でありたいと思う。
嫌いな人の言う「いいこと」も、「いいこと」とわかりますように。
糸井重里『ふたつめのボールのようなことば。』
しかし、言葉と人は切り分けられるものじゃないなとも思う。
言葉はその言葉を表すためにあるのではなく、その向こうの情景を現すためにあると思うからだ。
できる限りのことをするためにベストを尽くすことが、勝負時に自信を持って決断できるかどうかにつながっているような気がします。
羽生善治
「これだけやったのだから後はどうなってもしようがない」と思って選択することが出来、決断できる時には、物事は大体上手く行くものだと思います。
誤解を恐れず言えば、この趣旨の言葉はよく言われていることだと思う。
人事を尽くして天命を待つという諺があったりもする。
しかし、羽生さんがこれを言っている、この言葉を抱きながら将棋に真摯に向き合い続けている羽生さんが言っていることに無二の意味があると思う。
この言葉を思い浮かべる私の脳には、同時に羽生さんの棋譜や感想戦への向き合い方の逸話等が一緒に浮かんでくる。
そうやって思い浮かべた言葉は、誰が言ったかも知れない広告のコピー等とは違って、細胞に染み込んでくるような感じがある。
研究室の准教授が、展示会に向けて作品を作っていた。
大きくて重たいものだったので、ちょっと持ち上げるお手伝いをした。
そのときに
「(作品の制作について)多分うまくいかないんだけど、やれるところまでやってみてまたそこで考えようと思ってる」
ということを言っていて
「とにかく手を動かそう!」というデザイン書の言葉を軽く飛び越えて頭にストンと入ってきた。
今日の猫
今日という一日の中に、もうひとつ新しい一日が生じたような、そんなすがすがしい気持ちがします。
村上春樹『職業としての小説家』
将棋で新しい手筋に触れて感動した時、その場限りの盤面で自分なりの良い手を発見し、状況を打破できた時、悔しい負け方をして、ここから学んでやるぞと棋譜検討をしている時
曲作りをしていて音が噛み合った時、気持ち良い音の進行を見つけた時、自分が気持ちの良い音の並びを聴いている時、音楽理論を勉強している時
絵を描いていて、良い線が描けた時、描いてる対象について「こうなってるんだ」って思っている時、かっこいいものが描けたなって時、
映像や漫画を作っていて、良い構図が浮かんできた時、良い絵が撮れた時、音と絵が噛み合った時(映像)
文章を書きながら考え事をして、物の見方や考え方に関する発見をした時、頭の中で点で存在していたものが線で繋がった時
ものづくりをしていて、これはユニークな解決策だなっていうアイデアが出てきた時、綺麗なものが出来上がっている時
友人の価値観と自分の価値観がぶつかることで自分では思ってもしなかったものが出来上がっていく時
本を読んでいる時
これらのタイミングで得るポジティブな感情について、冒頭の引用はちょうど言い得てくれた。
新鮮でエネルギッシュで、もうひとつ新しい一日が生じたような、すがすがしい気持ちである。
新鮮でエネルギッシュで、すがすがしい気持ちを得るために生きているのかもしれない。
今日の猫